2019年5月27日月曜日

徳川幕府が外国人にお勧めの観光地

20150629

 外国人が日本観光に来て感心するのは日本人のおもてなしの細やかさ、サービスのよさ、日本人全般の親切さがあげられるが、これは江戸時代においても同様である。もっとも国内旅行を許されるのは阿蘭陀(長崎滞在商館員)と朝鮮(通信使一行)二国のみであったが。
 
 江戸参府が目的のため往路・帰路とも定められていて自由な国内旅行はできなかったが、それでも帰路においては京・大坂では比較的自由に有名な寺社、繁華街、市場、商店街などを参観できた。もちろん買い物も自由で、商魂たくましい京阪の商人たちはオランダ人や朝鮮人の喜ぶような商品を売りつけた。
 
 京都では参府の帰路、祇園~八坂~清水寺~方広寺(大仏殿)~三十三間堂~伏見稲荷~が幕府推薦の観光コースであった。彼らに買い物も大いに勧めた。このコースをとって伏見まで来るとそこからは下りの大坂行きの船が出ている。(参府の交通のなかではこの船旅はもっとも快適なもののひとつであり、チェンベリはんなんかはオランダの運河の客船に劣らない快適さだと褒めている) そのため江戸参府帰りの阿蘭陀、朝鮮の人たちは必ずこのコースをとり、幕府おすすめの観光をしたのである。下の地図がその当時の観光コースです。上京の相国寺、三条橋付近(赤丸)が施設の宿ですからこのコースは大坂への帰路で通った道ですね。
 
 
 記録を残した外国人がほとんど書いている名所の一つにこのコースの中の「大仏殿」があります。その巨大さが印象に強く残ったものでしょうね。
 
 まず17世紀後半のケンペル
 「大仏殿に行った。その近くの茶屋に入って饗応を受けたが小判1枚払った。規定料金の4倍だ(帰りは自由観光ということで幕府の接待でなく自分で全部金を払ったのがわかる)・・・この国で見た建物の中でもっとも高いのがこの大仏殿であった。(以下、大仏についての詳細な記述がつづくが省略)」
 彼は挿絵を残しているのでそれをご覧ください。大仏殿の様子がよくわかりますね。日本人の描いた京都名所図会と同じですね。
 
 京都名所図会
 
 チェンベリについては前のブログでとりあげました。
 
 そして有名なシーボルトですが、残念なことに彼が京都へ来る30年ほど前に大仏殿は火災で焼失してしまいました。それでもここ見学しました。このように書いています。
 「この大仏殿はかなり昔に焼失してしまった。しかしこの寺で(方広寺)梁を留めていた輪や鉄材、青銅製の聖なるハスの花や巨大な花弁、屋根瓦、など消失寺院の残骸を見せてくれた。すべてのものはそれ自体大規模な建築の特徴を持っている。」
 何十年も前に焼失してもその遺品を見せて参拝客を呼んでいたのは(もちろん寄進させたりして寺銭を集めていたでしょう)観光化された今日の京都の寺と変わりませんなぁ。
 シーボルトはんもこの近くの茶屋で休んでいます。
 
 朝鮮使節についても阿蘭陀人と同じように帰路にこのコースを幕府は設定します。ただ阿蘭陀人はだいたい(19世紀になるまで)毎年のように参府しますが、朝鮮使節は将軍の代替わりの時なので回数はウンと少なくなります。(数十年に一度というときもある)
 
 その中で八代将軍吉宗襲職の時に来た使節が帰路、幕府のたてたプラン、方広寺見学、そしてそこでお茶しましょう、というのを断固拒否します。なんでか?
 使節は
 「ここはあの憎っくむべき秀吉の願堂であるニダ。この秀吉(賊といっている)は百年の仇である二ダ。なんでワイらがそんなところでお茶せなあかんのやニダ、ぜったい嫌やだニダ」
 
 使節の言い分はよくわかります。落ち度もない朝鮮を一方的に攻めて大被害をもたらした張本人ですものね。そんな張本人ゆかりのところで観光だのくつろいでチャ~飲むのなんかいやですわ。
 
 じゃあ八代吉宗以前の七代や六代、五代将軍の時はどうだったのか、昔は先例が重んじられますからそれを見てみると、以前は問題にしていません(近くにある耳塚は別ですけど)。多分朝鮮側にこの寺(大仏殿)についての知識があまりなかったのか、多少はあっても幕府が(いや~そんな嫌悪施設やおまへん)と言いくるめていたのでしょう。
 
 だが今回は違いました。秀吉が建てた寺と大仏殿ということで拒否しました。それならそこをパスして他を見て楽しんでもらやぁええのに、幕府から接待を委任された対馬藩は、なぜか「いや、そんな仇の寺やおまへん、どうぞ、お茶して行っておくんなはれ」と撤回せず強く勧めます。対馬藩は先例や、幕府の描いたプランから外れるのを嫌ったのです。こういうところは硬直した幕藩体制のやり方ですね。
 
 断固拒否を貫けば朝鮮使節はオランダ商人と違って国賓待遇です、そして帰路の立ち寄りは観光目的ですから、方広寺立ち寄りは出来ません。
 
 しかし、使節は拒否の理由をこう述べていたのです。
 「~大仏殿は秀吉の願堂であるとの評判を聞いている云々」
 つまり使節は伝聞では、といっているのです。彼らは確かな資料に基づいて言っているわけではなかったのです。そこを接待役の対馬藩はつけ込みます。
 
 「それは伝聞やおまへんか、そりゃ、まちがいどすわ、ほれ、ここに確かな文献を用意しておます、よ~見とくれやす、秀吉はんの建てたのはブッ潰れまして、今のは徳川はんが建てたもんどす。第一、徳川は豊臣を成敗して将軍になったんどす、秀吉はんの願堂を尊崇して残すはずがありまへん」
 
 といって「日本年代記」なる史書を持ち出し、朝鮮使節を納得させます。
 
 使節は疑問に感じつつ、このように幕府から示された文献を見ると信じないわけにもいかず、
 「まあ、こんだけ秀吉ゆかりのところは断固拒否とゆうたんやから、このことは記録にもちゃんと残るし、ワイらの意思は十分示せたやろ、もうこのへんでええやろ」
 
 と方広寺で接待を受けます。
 

 こっら~!被害者意識は千年たっても変わらんぞ~ (パク・クネいわく)

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