2019年5月27日月曜日

北方探検記 その2 エミシから蝦夷が島、そして北蝦夷へ

20150725

 古来より日本の西方や南方は日本の境界が比較的はっきりしていた。といっても古代や中世の時代、近代的な国境の概念などはなくまた他者(他国)についても同じことであった。しかし奈良時代から律令制に基づく国郡制度ができており、五畿七道の下、六十余州が置かれていたので、西海道以西や以南の洋上のむこうは外つ国(外国)と認識されていた。西方や南方は大洋で隔てられていたからである。
 
 ところが北方となると事情は違ってくる。そもそも日本の東北地方が律令制の国郡に編成されるのは奈良時代でそれでも東北北部などは律令中央政府の支配の及ばない地域であった。出羽国、陸奥国の北部地域の境界はそのため定かではなかった。平安初期においてもこのあたりは日本(律令体制下の)とは言えず、まだ征服されるべき地域としての認識であった。桓武朝に坂上田村麻呂がこの地域に住む支配に属さない蝦夷(エミシ)の討伐に乗り出している。
 
 この頃以来、蝦夷(エミシ)たちの住む東北北部以北にも海峡を隔てて『蝦夷が島』があることが認識されていた。漠然とではあったがその蝦夷が島の大きさは日本の本州と同等かそれ以上の広がりを持っているものと信じられていた。むしろ島というより大陸北方に連なる大きな半島かも知れないと思っていたのであろう。
 
 この後、中世に漸次日本人の居住区域は北上し、蝦夷が島(北海道)の南部地域にまで日本人は進出するが蝦夷が島の大半はアイヌ人が住んでおり、日本人(和人といわれる)の非居住区域であった。これは江戸時代になっても変わらない。幕藩体制下、北海道南部には松前藩が成立するが、北海道の大半を占めるアイヌ居住区域は意図的に和人の移住禁止措置が取られていた。
 
 それでも日本の北辺は次第に日本人に明らかになって行く。御存じのように江戸時代はいわゆる鎖国(現在はこの言い方は正しくなくむしろ管理貿易体制と言った方がいいだろう)であり、海外の渡航は禁止されていた。しかし北辺に関しては海外といってもその境界は明瞭でなく、狭い海峡で北の方へ連なり、当時の認識としては北蝦夷などは大陸につながっているのではないかと思われていた。
 
 日本列島地図を見るとわかるように
 
 
 列島は狭い海峡を隔てるだけで本州~北海道~樺太~と北へ連なり、それにつれて大陸と列島をへだてる日本海はどんどん狭くなってきている。日本海を北上した船乗りたちは海が狭くなるにつれ、もしかすると樺太は大陸とつながっているんじゃないかと思ったのも頷けますね。
 
 そんなわけで列島を北へ進むということは、九州あたりから大洋へ乗り出して外国に行く感じはなく少しずつ行ったらいつの間にやら日本以外の国に・・・・・という感じで、鎖国の禁を犯すという考えは薄かったんじゃないかと思われます。(もちろん藩や幕府から認められた交易とか調査をする特権商人や役人だけですが)
 
 江戸中期になると北蝦夷(樺太)の南部あたりも松前藩が管理する交易の範囲に入ります。幕府としても松前藩を通じてこのあたりまでは漠然と日本の版図であると認識していました。
 
 この北蝦夷(樺太)を含む北辺地域は幾つかの北方民族が存在し、比較的穏やかに交易を通じた交流を行っていましたが、江戸中期以後それをかき乱す大きな勢力が進出してきます。その影響は日本の版図として考えられていた北海道やその周辺諸島、樺太北部にも影響を与えてきます。
 
 以下つづく

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