今、水などは家に引かれている水道水の蛇口をひねるだけで水は出てくる。水道水の水質は管理されそのまま飲んでも差し支えない。現代人は当たり前すぎることである。しかし、百年前はどうだろう。モラエスさんは徳島市へ住むと決めたときあえて庶民の借家を探した。そこで日本的な間取りの家で日本的な(畳、座って書いたり読んだりする日本の文机、畳に敷く布団)生活をした。当時のごく一般的な庶民生活を送ったと言ってよい。そのモラエスさんの家には蛇口のある水道などはなかった。そのあたりの(伊賀町)どこの家も同じである。
台所には大きな水瓶(こげ茶色の大谷焼の壺)が置いてあり、木の蓋で覆ってあってその上に柄杓がのっていた。これを汲んで米のとぎ汁、調理用の水、そして食器洗い、飲み水、にあてた。水瓶が空になると井戸、郡部山間部で綺麗な小川や谷川の清水のあるところはそこから運んできた。天秤棒で水の入った桶ぇ担いでエイチラオイチラ、坂ぁ(たいがい水場は低地にあったから)登ること思うてみぃ、たいへんやでぇ~。
家の敷地に井戸などがある場合はよいが、都市部のどの住宅密集地などは共同井戸が多く、共同井戸まではかなりな距離がある場合がある。だから桶に入れて台所まで運ぶのは大変な重労働だった。つい百年前、徳島の市内でもこんな様子である。
モラエスさんの住むあたりも共同井戸である。すぐ裏にあったため比較的楽だったが、このあたり、地下水に塩分が混じるため、洗濯、水浴び、庭の水やりしかできなかったと書いている。そのため徳島市内は水売りが出ていて、水桶の入った大八車を押して水売りが各戸へ売って歩いた。
水と書いた木札を軒に吊るしておくと、台所の水瓶に入れてくれたそうだから、楽と言えば楽だが当然お金がいる。モラエスさんは一桶五レアルと書いているが、日本円でいくら払ったのだろう。ワイらの曾爺ちゃんや曾婆ちゃんまでの時代はこんなやった。信じられへんくらいの苦労や。今は蛇口ひねったら水質の良い水が何ぼでも出てくる、有難いこっちゃ。
水売りの水の供給源は眉山麓のいくつかの湧水場であった。水売りは鑑札制になっていたそうである。下は現代の『錦竜水』であるが百年前もここは水売りの供給元の一つであった。
解説版にもそう書いてある。
またモラエスさんは、大滝さんの祇園祭の夜店のにぎやかさを書いている。しかし、まてよ、大滝さんに祇園さん(八坂神社)なんてあったかしら?今日、その場所を探して歩いた。確かに今でもあるが、その神社は小さく、祇園祭の夜店なども今は出てはいまいと思われる。現代では祇園さんと言えば蔵本の祇園さんの夜店しか思い浮かばない。
時代と共に神社の流行り廃りもあるんかなぁ
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