2019年5月26日日曜日

唐への旅 その3

20150523

 さて、いよいよ円仁はんの『入唐求法巡礼行記』の日記を読んで行こうと思うのですが、原本は下の左にあるような和綴じ毛筆本ですが、そんな貴重なものを手にすることも見ることも出来ないので(原本とは言っても九世紀初めの日記ですから後世の写本ですが)平凡社から出ている東洋文庫からのテキストを読みました。下の右が見開いたものです。
 
 
 この本、史料としては外国人どころか日本人にさえよく知られていない本です。ワイも若い時は(日本史の勉強をしていた時でも)恥ずかしながらよく知りませんでした。古典とは言えかなりマイナーな本でした。しかし当時の最上級の知識人である遣唐僧が書いているものであること、真面目で客観的な目を持つ円仁さんであること、求法の旅とはいえ仏教関係の記述のみでなく、その地の(唐)の風俗、人情、景観など歴史好きのワイらが知りたいことがテンコ盛に書かれています。
 
 なんでこんな素晴らしい史料があまり注目されなかったんやろ、実はこの史料が注目されるきっかけを作ったのは残念ながら日本人ではありません。アメリカの学者(というよりワイらには駐日米大使としての方が有名であるが)ライシャワーはんだったのです。
 
 彼はこの本を旅行記として高く評価しました。彼は、なしてこんなすばらし~い本を日本人のほとんどが知らんのやろか~、と言っています。彼はこの本を研究資料として読むだけでなく、人々に(それも世界の)知らしめるため漢文で書かれたこの本文を苦労して英語に訳し英訳本『世界史上の円仁~唐代中国への旅』を出版しました。その本の前書きで彼はこのように書いています。
 
 『ヴェニスの商人マルコボロの世界漫遊の記録は人々の想像力をそそることによって歴史の流れに大きな歩みを残したが円仁の旅行記は今日に至るまでほとんど読まれていないばかりかその名前さえ知られていない。しかしながら、円仁はイタリア人よりも先にかの偉大な中国に足跡を印しある意味ではマルコボロの記録に勝る遍歴についての業績を残しているのである。マルコボロの場合についていえば旅行が終わってのち数年を経て文盲の彼が彼の冒険を口移しに伝えたものであるから、非常に茫漠としたものがある。しかるに円仁の変化に富む経験について一日一日克明に記した日記は世界史におけるユニークな文献であるといわなければならない。・・・・・・』
 
 中世古代の西洋人の旅行記で超有名なものはマルコボロの『東方見聞録』であるがライシャワはんはそれに勝るとも劣らないものであるといっています。また同時に彼はこの時代(唐時代)を知る有名な旅行記に玄奘三蔵の『大唐西域記』があるが、内容の詳細さ、生きた色彩、溢れる人間的記録では円仁はんの記録が勝っているといっています。
 
 そんなライシャワはんの努力もあってこの本は、マルコボロの『東方見聞録』、玄奘三蔵の『大唐西域記』と並んで世界三大旅行記と言われるようになった。・・・と、それにしては日本ではいまだによ~しられていないのが実情ではないでしょうか。
 
 いよいよワイが読む、といっても上の写真を見てもらったらわかるように原本は漢文です(もっちろん旧字体の漢字ばかりじゃわな)、高校生大学生くらいの春秋に富む年齢だと原本の漢文をお勉強しがてら読むのもいいかもしれないが、ワイのように余命いくばくもないジジイになるととりあえず理解が早く、かつ原本に忠実で微妙な意味も知れる漢文読み下し文で読むことにしました。
 
 左は読み進めるテキストの一部です。この記録者の円仁はん、9世紀の初めの人(調べたら生まれは794年じゃ!鳴くよウグイス平安京で、平安遷都の年生まれじゃわ)。で、えら~い坊さん。買いとる文も漢文、定型の書き方、堅苦しい内容かと思うが、ライシャワはんもゆうてはるように生きた匂い色彩が感じられる記述が随所に見られます。
 
 赤色線の記述は何のことかというと、よ~するに、食べたもんが悪かったか、よくゆ~よ~に、旅先で水に当たったか、ピッピッピの下痢になってしまって船が進めなくなったこと、こんなことも書いているんですよ。
 
 テキストの一部が出て来たついでに黄色の線部分についてもちょっと言うと、下痢した人の見舞いの時の事、『第四船云々・・・』とカギカッコで囲ってある部分。この記述の24日は大陸へついて22日目の記録です。上陸してから他の船がどうなったかはここまで書かれていませんがここで初めて書かれています。といっても円仁はんが知ってて書かなかったのではなく、この時まで自分以外の船が無事に大陸のどこかに着いたとおそらく知らなかったんでしょう。
 
 それは・・・登時(そのとき)船に帰って聞く・・・とありますからようやく伝聞で情報を得たんでしょうね。それによると第四船はようやく着いたが飲み物水もなく、しかたなく海岸の漁師の家で副使以下乗組員はいること、船は大破し、使用に耐えぬこと、ただし唐への進物などは無事だったこと、でも、迎えの船がないため、進めない・・・これで見ると第4船は何とかついたことがわかります。遣唐使船は規定では4隻だけれども日本にいるときから第2と第3船は故障で出発してませんから、今回の遣唐使船は何とかすべて大陸には着いたことになります。貧弱な船で運を天に任すような航海でよく着きました。いちおう遣唐使の目的は半分達成です。(帰りも危険がまっとるからな)
 
 とまあ、こんな調子でテキストを読んで行くわけです。それでは最西端の日本領土、五島列島北の端から船出する所から読んで行きませう。
 

 次回ブログにつづく

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