2019年5月26日日曜日

唐への旅 その4 大海を一気に横断

20150525

 いよいよ五島列島北端の島で東北の風が吹いたので帆を上げ大海の一気横断を企てます。朝鮮半島沿いや沖縄南西諸島の島伝いに行くのと比べ大陸までの距離はグッと短くて済みます。
 
 
 上の地図でいうと南島コースがそうです。しかし五島列島を出た後は大陸まで海ばかりで島も朝鮮半島も見えません。ひたすら西方に船を進めるだけです。そのため東からの風をとらえるため九州西端や五島列島で風待ちをしたのです。前の帆の力学で言ったようにこの時代、帆布も三角帆もありませんから順風を待たねばならないのです。
 
 承和五年六月廿三日、夕方ごろ帆を上げました。東北の風が吹き西航します。夜に入って暗くなったけれども順風が吹いているのでそのまま船を進めます。遣唐使船は結局故障があって第一船と第四船の二船だけです(我が円仁はんは第一船に乗っています)。この日の出帆に際しては二船同時に進んで行ったのですが、夜に入って暗くなったので、舳先か艫かどちらかわかりませんが(おそらく艫のほうだろう)に篝火を上げます。本文では『両船は火信を相通ず』と書いています。広い大海の夜、波に揺らめく炎がお互いの併走と無事を知らせています。
 
 出帆二日目、六月廿四日、夜が明けて見ると第四船は遥か前の方を進んで行くのが見えます。目測ですが三十里(この時代の一里は530~540mくらい)・16km位西方です。明るくなると狭い船の中、行動は極めて制限されています。いったい遣唐使のお役人や留学僧の円仁はんは何をしていたのでしょう。ずいぶんと退屈だったんじゃないでしょうか。それについては円仁はんはこのように書いています。『大使は観音菩薩を描き』、『ワイら留学僧は読経して祈願する』 、と、無聊を慰めるためになんでそんなことを?もっと他にすることないんかいな、とも思いますが、観音菩薩を描くのも読経するのもその功徳によって航海の無事を祈るモノです。
 
 その日の(24日)の夜に入っても第4船の灯はまたたく星のように見えます。前と比べると離れたように見えます。そして夜が明けるころにはその第4船も見えなくなってしまいます。風は艮(うしとら・東北)より巽(たつみ・東南)に変ったけれども全体として西航していてまずまずの航海だ。(日は25日に変っている)
 
 25~26日にかけて。海を見ていると漂流物がある。よく見ると大竹、木の根、大イカ、貝(ん?貝がなんで表面に浮いてるんやろ?ちょっと不思議)が潮の流れに乗って流れている。鉤を引っかけて取ってみると何かの生物や枯れ木だったりした。海の色も浅緑に変っているので船の人々は陸地が近いんじゃないかと思った。申の時(午後4時)、円仁はんはこう記している『大魚あり、船に随って遊行す。』と、この記述どう解釈します?
 
 大魚とありますからかなり大きな魚、しかし江戸時代以前の人はクジラ、イルカ類も魚の仲間に入れていますからもしかしたら・・・、そして船に随って随行云々、この能動と次の・・・遊行す。に注目しますとこのような行動は魚類では無理、少なくとも船から随行しているのが見えるのだし、遊行というからにはポカッと浮かんで顔をこちらにむけたり、水面からぴょんと飛び上がったはずです。そうするとこれは小型の鯨かイルカが考えられます。イルカ類は人なつっこく船と帆走してまるで遊んでいるような行動が見られることが知られています。
 
 ここまでは順風で波も比較的穏やか、船は出来る限りの高速度で西に向かって進んでいると考えられます。このように順調に進みますと帆船ならば早ければ3~4日で大陸についてしまいます。だから東シナ海横断に出帆して3~4日目くらいになると、もうそろそろ陸が近づいたんじゃないかと思い始めます。緯度観測の六分儀も経度を知る正確な時計でもあるクロノメータもないこの時代、船のだいたいの速さと方向でどれくらい進んだかごく大まかに知ることしか出来ませんが、経験から他にも目視で陸が近づいたか知ることができます。
 
 円仁も書いています。陸から流れたと思われる漂流物を見たことや海の色の変化です。26日ころには海の色が「浅緑」に変化していて、それを見たみんなが陸地が近いんじゃないかと話し合います。
 黒潮の支流が洗う日本近海では海の色は青藍色をしています。しかし大陸の特に揚子江あたりに近づくと海の色は途方もない大陸の大河である揚子江から流れる水に影響を受けて海の色も変化しはじめます。揚子江の水に含まれている土の微粒子やそのほかの物質が混じってくるためです。だいたい左の矢印示されたように変化すると思われていました。
 
 青藍⇒浅緑⇒もっと白っい緑(円仁は白緑と言ってます)⇒泥土のような色
 
 26日ころ浅緑に変化して『陸が近いぞぉぉぉぉ~』と期待させます。
 
 
 そして27日、順調に見えた航海に心配事が起ります。遣唐使船は木造でそれを組み合わせて作り、木材の間には耐水性のため木の皮を詰め込んだり、しているのですがもっとも強度が必要な船の四隅、重要な接合部分には波風から保護するため鉄板で保護しているのですがそこの部分が波から繰り返し力を受けることによって全部脱落してしまっていたのです。
 しかし、うれしい予兆もありました。鳥が船に泊まるのがたびたび見られたことです。渡り鳥でしょうが悪い前兆ではありません。そして海の色はさらに「白緑」に変化しました。揚子江の河口が近いに違いありません。
 そのため船の高い部分帆柱に人を昼も夜も上げて陸が見えないかみはらせますがこの次の日に変るまで陸も島影も見えません。
 
 そして翌28日、鷺鳥が西北を目指して二羽飛んでいるのが見えた。基本的に長距離の渡りをしない鷺が見えたということは陸地が近いに違いありません。そして海の色は「黄泥色」になりました。見る人は皆、『このような色になっているのは揚子江の水である」といっています。増々揚子江河口に近づいたに違いありません。さっそく帆柱にあげて望見させます。するとその人が言うには
 『西北の方向よりまっすぐ南に流れているようで。その幅は10kmあまりだ。船の前方のずっと向こうでは再び浅緑になっている。』
 と、揚子江河口の海の色に違いない黄泥色から再び浅緑になるのは不思議なことである。海の事情をよく知っているものに問いただすと、揚子江の河口が開いている海域を早や過ぎ去ったのではないか、といっている。
 
 ところがこの日、昼過ぎ(未の時・午後2時)海水はまた以前の黄泥色となる。またしても、早速帆柱に立たせ遠くを望見するが陸も島も見えない。
 
 風はやはり偏東風で強さも以前と変わらない。ところが波が高く、船の船端に当たる波の音は雷鳴のように大きい、海の色も白濁の色を増している。これはもしや海が非常に浅くなっているのではないか、(海が浅くなると当然海底の泥の影響を受けて白濁もするし、波も片波に大きくなる)
 縄の先に鉄をつけて沈めて深さを測るとわずかに5尺(15m)しかない。しばらくして計ると今度は12m、ますます浅くなっている。
 
 陸が近いには違いないと誰もが悟っているが、浅瀬に乗り上げ座礁する危険があり、そうなると浅瀬に押し寄せる波で船がバラバラに破壊される。大陸の港に導く航路以外の揚子江河口付近を通るのは危険である。
 
 大使以下船の幹部連中(船長も)どうしたらよいか話しあう。『錨をおろし明日進めばよい』、いや『全部帆を下して、遣唐使船に用意されている小舟をおろし。前方の海の浅深を知り、それからゆっくり船を進めるのが良い」
 
 結局は船をここに留める方法は却下され、後者の説、船をゆっくり進める方法にすべきとなった。
 
 ところがこの夜、戌の時(午後8時)を過ぎるころから船は大変なことになるのである。
 
 以下次回のブログにつづく
 

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