2019年5月22日水曜日

龍ノ口

20141010

 龍ノ口とは鎌倉幕府の処刑場のあった地である。ここは今回の鎌倉の旅行でもあらかじめ行く計画はなかった。龍ノ口という場所があること、そこは処刑場であったことは知ってはいたが、旅行中すっかり忘れていた。それが江ノ電の江ノ島駅から乗車して駅を出るとすぐ北に『龍ノ口』というたて看板を見てそれで  「おお、ここが龍ノ口か」 とわかったのである。電車は鎌倉市内へ向かって進んでいるのでとりあえず鎌倉方面を観光し、帰りに(小田急で藤沢から新宿まで帰るから)そこを観光することにした。
 で、かえりし江ノ電・江ノ島で降りた。歩いてわずか2分。今はここに処刑場跡の碑が立っている。

 ここで処刑され・・・いんや!されそうになった有名人に日蓮はんがいる。日蓮宗の宗祖である。そんな宗教上の偉人だから、すんでのことに処刑されそうになったこの地も日蓮宗にとっては聖地扱いとなっているようだ。上の写真を見てもわかるように歴史的な石碑としての「処刑場跡」はまったくしょぼい記念碑しか立っていないが、宗祖・日蓮はんが処刑されそうになった地としてはその横に日蓮法難の巨大な寺が建っている。下がその寺。











 その法難とは何か?あらましはその寺の前の立て看板で知らしめている。






















 へ~~~っ!こりゃ、おろろいた!法難になったいきさつはともかく、処刑直前、つまりまさに首を討とうとするとき、ありうべからざる超常現象が起こっているではないか。光りモノが到来して、首切り人の目がくらみ、力が萎え、脱糞し(そこまでは言ってないがたぶん!)、首切りを果たせなかったそうだ。
 事実としてそんなことが起ったとはワイは信じていない。アグレッシブな日蓮はんは他宗を口撃しまくったため幕府に訴えられた。当時はすべて訴えによって法的機関が動き出す。公訴などはない。で、幕府の合議制の裁判所では日蓮はんの処分を下すわけだが、恐らくは流罪程度の判決だろうと思われます。もしかして合議所で死罪を主張する人がいたかも知れまへん。でも、坊主の首を斬るのは武士と言えど寝覚めが悪い。第一、当時の鎌倉武士は敬虔な念仏信者が多いため、南妙法蓮華経と繰り返し繰り返し一心不乱にとなえている坊主の首など切りたくない。京や鎌倉から離れた遠国に流罪が適当なんじゃないだろうか、そうしよう、そうしよう、決まり!だったんじゃないでしょうかね。
 もっと穿った見方をすれば、もしかしたら死罪の判決は下し、龍ノ口の刑場まで牽いて行って、そこで執権じきじきの赦免をする計画だったのかもしれません。(訴えた宗派もある程度納得するし、こちらもむごい僧侶の殺しなどしたくないから) いずれにしろ、幕府が本気で死罪にしようとしたとは思えません。もし本気なら、かなり強権的で意志の強い鎌倉幕府ですから、必ずやったと思います。日蓮はんの首は胴から離れていたでしょう。
 それにしても教祖はんは為政者から見たら厄介ですね。ちょっと咎めれば、『迫害じゃ、法難じゃ』ドンツクドンツク。許せば、超自然的な奇瑞が起って為政者や執行者が改心したワッショイワッショイ。そして秩序の攪乱者として処刑すれば、キリストのように『ワイは全人類の罪を背負って死ぬのだ』アーメン。どう転んでも教祖は偉い!まったくかないまへんわ。
 この龍ノ口の刑場を見る限り、日蓮はんの奇跡の説明ばかりが鼻につき、いや、目につきますが、他にも多くの人がここで処刑されました。私として注目したのは鎌倉幕府に外交使節としてやってきたモンゴルからの使者5人が幕府によってここで処刑されたことです。
 長くなるので次回に続きます

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