日本歴史上、幕府は三つある。鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府である。形式的には幕府は初代の征夷大将軍の任官によって開かれ、その終焉は後継者である征夷大将軍の罷免、または辞任によるというのが形式的にいえば終わりとなるのだろうが、世襲権力と化した歴代幕府の最後はそのようなすっきりしたものではない。
三幕府の中でもっとも壮絶な終焉を迎えたのは鎌倉幕府である。ちなみに室町幕府の最後の将軍は罷免も辞任もなし、信長に京都を追放されそれで終わり、征夷大将軍の虚位とともに生きながらえ、形式的に征夷大将軍を退いたのはずっと後の出家のとき、はなはだすっきりしゃんとしない終わり方である。江戸幕府はご存知のように慶応三年、王政復古の大号令で慶喜が征夷大将軍を罷免されたとき。
先日鎌倉へ行ったときその終焉のいくつかの舞台を見てきました。前回のブログで言ったように小神子に似た地形の鎌倉は守るに易く攻めるに難しい地形である。入るには『切り通し』を通らねばならないが、山を切り崩した隘路の小路に攻め手の兵が充満すれば、山の上から矢を射かけられる。太平記によれば鎌倉攻めの第一波は極楽寺坂きり通しに向かいましたが、やはり抜くことは難しくずっと後方まで退却します。
まず江ノ電の極楽寺坂で降りました。
その名の由来になった『極楽寺』が駅のすぐ近くにありました。(説明版はクリックで拡大)
そこから坂を上ると極楽寺坂切り通しです。
鎌倉幕府をぶっ倒すためここを抜こうとしましたが天然の要害を利用した守りが固く退却、そこで総大将新田義貞は別の攻め口を考えます。地図で見てみましょう。彼が目をつけたのは鎌倉方が砦のように守っていた『切り通し』ではなく西の海岸通りの稲村ガ崎でした。
江ノ電では極楽寺駅の次が稲村ケ崎駅なのでそこも行ってきました。
山が海に迫っているのがわかりますね。今は上の左の写真のように国道は山を切り崩して通っていますが中世の鎌倉では右のような磯を通る道しかありません。太平記によれば幕府方は新田義貞等の討幕軍を通らせないためこのあたりの海岸線に逆茂木(さかもぎ)・バリケードのようなもの、を設置し、また海には軍船を浮かべ、押して通ろうとする敵方を船上から弓矢で射ました。
結局、内陸からの切通しもダメ、海岸の稲村ケ崎もダメ、ということで鎌倉突入はなかなかできません。さあ、そこからが太平記のちょっと眉唾な話になるのですが、稲村ケ崎に立った新田義貞は神に祈ります。正義は自分にあることを訴え、竜神に捧げるとして自分の佩いている黄金の太刀を『海の水を引かせたまえ』と海中に投げ入れます。するとあ~~~ら不思議、汀は沖に後退し海岸に沿った干潟が鎌倉に向かってできました。幕府方の軍船も水際とともに後退し、矢も届かなくなりました。新田義貞は兵を率いてそのできた干潟を通って鎌倉に突入します。これがきっかけとなり幕府方の防御はほころび始め、内陸のいくつかある切通しも突破されてしまいます。
私が稲村ケ崎に行ったときは快晴で夏がぶり返したような暑い日でした。駅前でスティックの氷菓子・ガリッコ君をかじりながら稲村海岸へ行きました。ここは多くのサーファーで賑わっています。サーフィンのメッカのようのところです。そういえば25年も昔、ヒットした映画で「稲村ジェーン」というサーファーの映画があったのを思い出しました。
稲村ケ崎から稲村海岸を見る。遠くに江の島が見える。
ここを抜かれた後は鎌倉の中が戦場となりますが、中になだれ込んだ討幕軍の勢いは強く、ほとんど日を置かず幕府は滅亡の時を迎えます。その最後の場所は鎌倉の東勝寺、最後の執権北条高時とともにそこで敗死したり自刃したりして幕府滅亡に殉じたものは太平記によれば870余人と言われています。また鎌倉滅亡とともに運命を共にした人は鎌倉だけで6000人に及んだと太平記は述べています。
その東勝寺にも行ってきました。ここは北条家の菩提寺であったそうですが、今は寺はなく、その跡地だけが残っています。また奥には高時(執権)の腹切りやぐら、という跡も残っています。動画でどうぞ。
この日の鎌倉歴史巡回は新宿を起点に小田急の『一日鎌倉江の島フリーパス』の切符を利用しました。新宿出発で往復、鎌倉・江の島・藤沢間は乗り降り自由で、1470円、お得な切符でしたがこの日朝、飛び込み自殺があってダイヤが大きく乱れ、直通のところ何度か乗り換えたのでそれがちょっと不便でした。
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