龍ノ口は鎌倉幕府の刑場であったが、この刑場は鎌倉の中にはない。鎌倉のはずれよりまだもう少し遠くにある。今日でもこの場所は鎌倉市でなく藤沢市となる。地図を見てみよう。下の地図でいえば電車の江ノ島駅の場所が昔の龍ノ口の処刑場であるとみてよい(歩いて2分の距離だから)
このように刑場が幕府の所在地より遠い郊外におかれたのはなぜなのか?そして注意してほしいのは郊外といっても当時、京都から東海道を下って鎌倉に入る大街道沿いにあるということだ。これは幕府の神聖な都である鎌倉の街中で処刑などという穢れを伴う行為など行いたくなかったということが理由の一つ、そしてもう一つの理由は教育的理由による(見せしめといった方がいいだろうか)郊外のそれも町へ入る大街道にそれを設けたということは、鎌倉へ入る人々はいやでもその場所を目にする。処刑場は単に処刑する場というばかりでなく、処刑される人の中にはその場でさらされる人もいた。首であったりあるいは全身を吊ったままさらす場合もあった。それを人々は見るのである。それは謀反人、犯罪者たちはこのようになるのだぞ!という脅しになっていた。
幕府の立場から言えば、処刑場は謀反人、犯罪者を鎌倉に入れない精神的といおうかいやむしろ呪術的といったほうがいいだろう防波堤の役割を担わされていた。上記の地図を見ていただければやはり大街道(東海道)沿いに龍の口より鎌倉に近い鎌倉郊外に「腰越」という地がある。鎌倉時代初期、初代将軍頼朝に謀反を疑われた異母弟義経は申し開きのため鎌倉に下向する疑いを解かない頼朝は鎌倉入りを許さずこの地「腰越」にとどめられる。この事実からもこれらの地が鎌倉に対するバリアー的存在であったことがわかる。
下の岬、切り通しの向こうが鎌倉だが、手前には軍事的交通的障害ばかりか、処刑場を目にして肝を冷やすという精神的バリヤーも張り巡らされていた。
これは江戸幕府になっても変わらない。江戸の処刑場で有名なのは鈴が森、これは東海道品川はずれにある。やはり大街道に面している。そして奥州街道沿いにはこれも有名な小塚原刑場がある。いずれも江戸の郊外、大街道沿いである。やはり鎌倉幕府と同じ立地条件である、同じ意図があったのではないだろうか。
これは西洋中世でも同じである。中世都市は城壁に囲まれていたがその城壁の外、都市へ入る入り口近くには、処刑された罪人の遺体が埋葬されず吊るされて人々の目にさらされていた。
下二つは中世の処刑場とさらされる遺骸、一つは日本の死罪のやり方(もっと重い場合は磔、火あぶりなどもあった)
下は小塚原刑場跡、モノクロの写真が不気味ですよね。今でも当時の地蔵さんが残っていてその刑場跡を示しています。それにしても横のグロテスクな立ち木、ミイラ化した屍骸の二本足が逆さまになって大地から突き出ているようではありませんか。
こういうところワイは好きなので行きたかったのですが、帰ってからブログを書きはじめて思いついたので今回の東京旅行ではいけませんでした。ぜひ次回には生きたいと思っています。
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