2019年5月27日月曜日

北方探検記 その10 リンちゃん当時の彼我(日露)の軍事の差

20150809

 前回のブログで紹介したように1804~05年(文化元年~文化2年)にかけてロシア使節レザノフが長崎港にやってきて滞在します。目的は通商要求でした。レザノフは年を跨いで半年も希望を持たせつつ待たされた挙句、幕府は慇懃に通商拒否を回答します。レザノフは落胆、そして憤慨したことでしょう。

 彼は50年後に来るペリーと同じような考えが芽生えます。

 『武力をちらつかせ、強硬手段も可能性に入れ、脅すことで、頑迷な日本の国をひらかせよう』

 このような方策をとるにはもちろんレザノフの一存ではできません。皇帝・政府に上申し、国の外交・軍事行動として遂行せねばなりません。しかし、その手続きを経ることなくレザノフの部下が小規模な武力行使を行ったことは前回言った通りです。あとでこれはロシアの国の意図ではなく個人が行ったことであるとして幕府とロシアは和解します。

 結局、今回はロシアはペリーのように武力を背景に日本側に国を開かせることはありませんでしたが、このような武力を背景にアジアの諸国に対し無理な要求をするということが以後の欧米の外交交渉の重要なやり方となります。それではこの時点(1805年頃)でロシアも含め欧州諸国は砲艦外交でアジアを脅す武力を充分持っていたのでしょうか。それについて考えてみます。


 欧州の戦略家なら砲艦で日本を脅す最も効果的な方法は江戸湾封鎖すればよいことはすぐわかります。江戸湾口に砲艦を何隻か停泊させ、撃つぞと脅せば、この時代、日本が所有するのはすべて商船ですから、江戸湾に入る船をすべてブロックすることが出来ます。こうなると江戸に入る海上流通の大動脈は止められ江戸の経済は大混乱になります。また湾深く入れば、江戸の町が広がっています。艦砲射撃で町を破壊することもできます。こうなれば幕府はお手上げ、要求はなんでも飲まざるを得ないでしょう。

 しかし幕府に軍艦はありませんが18世紀末よりたびたび外国船が日本へ接近するようななるため各要所に砲台を築いています。この砲台で江戸湾へ入る外国船を阻止できないのでしょうか。



 ところがその日本側の大砲が問題なのです。19世紀に入っても日本の大砲は江戸初期の大坂の陣で使ったのと変わらぬ大砲でした。弾は球形、鉄か鉛で中には炸薬は入っていません。だから破壊は限定的で口径の大きな銃と変わりません。それに問題なのは射程が短いことでした。文化年間日露の間のいざこざで大砲が発射される場面が何度かありましたがロシア艦からの砲弾はこちらの砲台まで届いてもこちらの打った砲弾は船まで届かず、海上に落ちてしまったのです。

 対する欧州側はフランス革命~ナポレオン戦争をへて、武器は大いに進歩します。大砲の射程も伸びるし、また撃つ時の命中精度も向上しました。そして大砲の砲弾が爆裂するようになったのです。この時代になり爆裂する信管が実用化されます。(動画も見てください)


 







 そしてそのような大砲を積んだ当時の(ナポレオン戦争時)戦艦が下の図にあるようなものです。 

 なんや、戦艦ちゅうても帆船やないかと思われるかもしれませんが、船腹にある大砲の砲口をご覧ください。いくつあります。片面だけで48あります。これが一斉に火を噴いたら大変な破壊をもたらします。(砲弾は爆裂もしますからね、日本の当時の砲弾は言ったようにただの鉄の塊、直接当たらなければ何でもない) 戦艦は木造ですが外面は鉄板で覆われるなどして補強されている。







 
 艦上砲はこのようになっています。(模型で実物より小さい)






 もしロシアがこんな戦艦を4隻持ってきて江戸湾に侵入して砲艦外交を行えばペリーより50年早く日本は国を開いていたかもしれません。この時日本には軍艦などありません。1805年の時点で日本と欧州の海洋国との軍事の差はそれくらいひらいていたのです。

 これより30数年後、中国の清朝は海上でイギリス軍艦と衝突しますがもちろん船の闘いで勝てるはずはありません。ひとたまりもなく撃破されてしまいます。アヘン戦争ですが、アジアと欧州の海軍力の差はこれより30年前のこの時代にずっとずっと引き離されていて勝負はついていたのです。

 イギリスの砲撃で撃沈されるジャンク船






 







 いよいよリンちゃんが探検に出ますよ~~~

 つづく

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