江戸時代、本州方面から阿波に入る道はだいたい3つが考えられる。阿波の方の入り口から考えるとまず鳴門に上陸する方法、次に城下町徳島に近い海岸に上陸する方法、そして讃岐の方に上陸しそこから国境の山越えで阿波に入る方法である。ここでは城下町徳島に近いところに上陸した遍路に焦点を当てて話を進める。
大坂から出た船(500石くらい、鎖国政策のため沿岸航路の中では大船)は、今の新町川の河口、津田沖で停泊する。理由は二つある。まず大船であるため砂洲や浅瀬の多い河口から城下町の中心までそのまま遡れないこと。そして津田には徳島に入る他国の船、他国の人をチェックする津田番所がおかれていた。ここで遍路は入国手形、遍路手形を提示し(あらかじめ大坂の阿波藩の代理店である御幼少から発行されていた)、上陸許可を受けた。
もう一度当時の徳島の城下町のその様子を見てみよう。津田沖に大坂からの船が停泊している。そこで許可を受けた遍路は河口を遡れる小さな船(艀)に乗り換え、津田川(新町川)を遡る。
当時の絵地図からもう少し詳しく当時の地形を考えてみよう。まず上陸地は「新町橋」、木造だがこれは当時もある。場所も今日と同じ位置、それを起点に考えると海全体が今日よりずっと内陸に入りこんでいることがわかる。
上部に三重櫓が見えるがこのあたりが徳島城であるがそのすぐ東が海である。そして新町橋をこちらから渡った右側、今の市役所から裁判所の東の方、福島あたりが海岸になっている。沖の洲あたりは、文字どおり干潮の時に「沖」に見える「洲」潟であった。徳島市街地の東部は明治になって大規模に埋め立てられたのがわかる。
この絵地図は眉山側から見た城下町であるが逆方向、お城側から見た絵地図も下に示しておきます。新町橋北詰が広場になっていますね。そして向こうに眉山が見えます。眉山の裾野右側の大きくて立派な瓦屋根の建物は寺院群です。多くの寺院があるこの辺りは「寺町」と表示されています(崩し字で読みにくいですね)
この新町橋の川の両側は大坂からの荷や人を乗せた船が着くため着岸場となっていました。護岸から石段が川の中に入っていますね、これがそうです。そして荷揚げされた荷物を保管するため白壁の土蔵がずらっと並んでいました。そのためこのあたりは「船場」と呼ばれていました。(絵地図の右側、切れたあたりから~)
今はビル街になっていて当時の面影を知るすべもありませんが、まだ江戸時代の面影が色濃く残っていた明治時代のこのあたりの写真があるのでそれをご紹介します。おそらく江戸時代遍路が上陸したこのあたりもこのような風景画広がっていたことでしょう。
大坂からの船は新町橋よりずっと東の津田沖に停泊する。下は津田港
そこで艀(小型の船)に乗り換え新町橋あたりへ遡る。このような帆船が行きかっている。もちろん風の具合によって人力の艪も使う。
津田川から新町川に入り、新町橋あたりまで来るとこのあたりは船場、上述のように白い土蔵が立ち並ぶ。上陸する直前、遍路が目にした光景もこれに近かったと思われる。
この土蔵の中には大坂から搬入されてくる荷、逆に阿波から大坂へ搬出される荷が保管されていましたが。その中でもっとも重要な商品は・・・・・・・、皆さんもご存知ですよね。江戸時代、全国に鳴り響いた阿波の特産物は『藍』でした。染料に使われ、木綿の普及、衣料文化の進歩に従って江戸期に莫大な需要が生まれます。阿波藩はこれを専売にし、換金作物とすることによって、藩財政は潤います。建前は阿波藩は25万石余ですが、藍の専売によって実質50万石はあったといわれますからすごいですね。
専売制によって藩も潤いましたが、藩だけで全国流通のネットワークに乗せて販売できるわけではありません。藩と提携した『藍商人』が活躍しました。今でこそわが徳島の経済は47都道府県の下から数えた方が早いくらい小規模ですが、江戸期は藍の専売、藍商人の活躍により、かなり裕福な藩だったのです。
新町川南岸は今でも船場といわれていますが対岸は藍蔵が多かったのでしょうか今は藍場浜と呼ばれています。下はその藍商の様子を絵図にしたものです。
臼の中の何やら黒っぽいものを杵でついています。これは発酵させた藍です。それを杵でよくつき、藍玉にします。左のムシロの上に広げられているのが紺色の染料の商品となる藍玉である。それは蔵に納められ京阪さらには江戸や全国に出荷される。
遍路が上陸した新町橋一帯はこのように蔵や藍商、問屋、商店が立ち並ぶ阿波の商業の中心地であった。しかし、遍路にはこんな繁華な場所に用事はない。船中の旅でずいぶんくたびれてもいる。さっそく上陸一夜の宿へ向かう。行くのは寺町にある大滝山持明院の宿坊だ。上陸地からはわずかな距離である。さっそく歩きはじめる。
次回ブログにつづく
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