『六道の辻』と聞いてえも言われぬ不気味さを感じるのはワイだけだろうか。先日の京都一人歩き旅でこの場所を探して行ってきた。マイナーな観光地の為か会った観光客らしい人は数人だけ、でもマイナーが幸いしてこの場所にある六道珍皇寺は拝観料無料だ。その少ない観光客の人もこの六道の意味を知って観光しているかどうかはわからない。ま、観光パンフを持っていれば六道の意味も解説してあるからたぶんわかっているのだろう。
六道の辻と聞くと現世にありながらこの世とあの世を結ぶ巷で、黄昏時などこの辻からふとあの世に迷い込んで行ってしまうような錯覚にとらわれる分かれ道というイメージがある。実際に行ってみてその辻にある説明板を見て私のイメージが誤りでなかったことがわかった。このように書いてある。
『この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。「六道の辻」は五条通(現在の松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近とされている。』
六道とは
仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のこと。
天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
をさす。この松原通りを通って平安時代の人は部鳥野(鳥辺野)へ火葬へ、或は風葬といえば聞こえがいいが要するに遺骸を置きに、悪く言えば捨てられに行った。現世では前業により「人間道」に生まれたが、今、死んで捨てられに行く遺骸の持ち主(霊魂)は、現世の業により、良ければ天道に、悪ければ人間道より以下のもの(修羅~地獄)に生まれ変わるのである。その葬送への道のチマタが六道の辻と名づけられているのである。
六道の辻から終点(部鳥野)まではすぐだ。ここから登りになる。野犬や鴉が多く群れている山の麓がそうだ。平安時代の人はその野犬や鴉が死骸をつつくのを見たはずだ。庶民で火葬が無理ならせめて土に埋めればよいと思うが、当時の庶民の葬制は風葬・遺棄である。それが習わしだった。でもこんな光景を見るのは気色悪い。
霊感の強い人なら犬カラス以外にこんなものも見えたはず、「餓鬼道」に落ちた餓鬼、死体を弄び時には食する。これも前世は人であったかもしれない。(餓鬼草紙より)
松原通りを一本北に上がれば八坂通り、広大な建仁寺の南と接する通りである。その名のとおりずっと向こうには「八坂の塔」が見えている。(去年11月行ったところだ)
0 件のコメント:
コメントを投稿