たった一日の京の(それもおもに洛南や南東のあたり)旅でした 杖を頼りにフェリー、電車と乗り換えて京都までいっていましたが、ジジイにはかなりきつかったです。でも江戸の旅はもっと大変で苦しいものだと想像できますね。なにせほとんどが歩きですからジジイもババアもない、旅行するような人はみんな目的地までいって帰ってくるまでずっと歩き倒す覚悟で行かなければなりません。それに比べりゃ、フェリや電車に乗って寝たり坐ったりしたまま行けるのは天国だわ。
ここでちょっと脱線しますが、江戸時代の旅は歩きがほとんどだから歩けない人は旅には出られなかったんでしょうか?今はバリャフリとかで歩けない人でも旅はできますね。江戸の昔、障害で歩けない人の旅は絶対無理だったんでしょうか。ここで以前ブログで取り上げた説教節に出て来た小栗判官、手も足も萎え、目も見えず、すごい体になって神奈川の藤沢あたりで地獄から帰って来ます。そして熊野の(和歌山)霊湯・湯の峰に使って体を癒すため「土車」に乗って出かけます。東海道を下るわけです。その土車、今でいう車椅子の一種でしょう。でもこれは説教節という説話(フィクション)の話し、実際はどうだったんでしょう。足の傷害のある人が乗れる車椅子なんて会ったんでしょうか。
これがあるんですね。昨年の秋、東京へ旅行した時、日本橋の地下街に江戸時代の日本橋通りの様子を描いた『熈代勝覧絵巻』があり、この写真や動画を撮ってきたんですけれども、まずこれを見てください。
この人、足が無いか、または足が屈曲したまま固まって動かせないようです。いずれにしても歩くことは無理なようです。拡大しますとよくわかります。
現代の車椅子のように機能的ではありませんが、それでも手に棹のように持った二本の棒で自力で移動していたんだからこれは江戸時代の車椅子といっていいでしょうね。
江戸ってけっこう人にやさしいところがあります。旅のことで言うと、お伊勢参りをしようと無一文で飛び出した子どもが街道筋の人の情けで参拝を果たして帰って来た話はたくさんあります。それどころか犬でさえ道々食べ物をもらいながら一匹で伊勢まで行って参拝を果たして返ってきたニュースが江戸の町を時々騒がせています。上のような足萎え用の車に乗り、時には人の情けにすがりながら伊勢参拝を果たした人もいるでしょう。
閑話休題(それはさておき)、江戸の旅の中でも、楽で、情緒もたっぷりの(流れるように美しい風景、名物の食べ物もジッとしていて向こうの方から差し出してくれる)旅もありました。それは京~大坂間の船の旅です。楽な移動手段に慣れた現代人は、江戸の昔のように箱根を歩いて山越えだの、駕籠に揺られるだの、振り落とされないようバランスを保って馬に乗るだの、多少好奇心はあるにしても一日中やりたいとは思わないでしょう。しかし、江戸時代の京~大坂の船旅(特に下り船)は、これは現代人にも高級な船旅の商品としてお勧めできます。夕方京・伏見から乗って、船中泊、朝、大坂城に近い八軒家に着くものです。
現代人も一緒ですが江戸の人は船が揺れるのが大嫌いなのです。東海道も船の旅が二カ所ありました、浜名湖あたりと、名古屋熱田から桑名までの旅、これは海上なのでけっこうゆれます。船に弱い人女子供などは嫌って陸路をとりました。しかし、伏見~大坂の船旅は運河や河川です。ほとんど揺れません。滑るように動くのが心地よいくらいです。だから体の弱い人、女子供でも揺れや船酔いの心配なくみんなこれを利用しました。また夜行便もあるので横になって寝ながら旅ができました。
三十石船についての説明
全長五十六尺(約17㍍)幅八尺三寸(約2.5㍍)乗客定員28人~30人、船頭は当初4人と決められていました。
上り船
大阪には4つの船着き場(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)があり、主として朝早く出て夕方には伏見に着くのが通例でした。上り船は棹をさして上る所もありましたが、十一里余(約45㌔)を殆ど綱を引いて上ったことと思われます。綱を引く場所は9カ所あって、何処から何処までと決められており、大変な労働と時間をかけて、伏見まで上ることになっていました。
大阪には4つの船着き場(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)があり、主として朝早く出て夕方には伏見に着くのが通例でした。上り船は棹をさして上る所もありましたが、十一里余(約45㌔)を殆ど綱を引いて上ったことと思われます。綱を引く場所は9カ所あって、何処から何処までと決められており、大変な労働と時間をかけて、伏見まで上ることになっていました。
下り船
伏見の船着き場(平戸橋・蓬莱橋・京橋・阿波橋)からは主に夜に出て、早朝大阪着というのが一般になっていました。船賃は享保の頃では上り172文、下り72文でしたが、幕末には上り下り共その数倍になったこともありました。
伏見の船着き場(平戸橋・蓬莱橋・京橋・阿波橋)からは主に夜に出て、早朝大阪着というのが一般になっていました。船賃は享保の頃では上り172文、下り72文でしたが、幕末には上り下り共その数倍になったこともありました。
京の三条(中心地)から伏見まではさほどの距離はありません。歩くか、それも嫌な人は小さな高瀬舟で三条から歩かずに上の地図の三十石舟乗り場まで来ました。地図上の京橋とある橋の下から船は出ました。これは現代の京橋のたもとにある説明板です。
このあたりは京大阪に上り下りの旅客が集中するので宿屋がたくさんありました。歴史的に有名な宿屋は「寺田屋」乗り場のすぐ前にあります。
運河を進み宇治川に出てそれから木津川、淀川と進み、大坂八軒浜につきます。
途中、三十石舟は淀を通りました、ここには朝鮮通信使も感心したたくさんの水車がありました。大水車もありますがこの図のは農業用水用の小さな水車
旅客船の左に小さな船が横付けされています。これは物売り船(くらわんか舟)と言います。船上のコンビニですね。売り子の物言いがまた旅の情緒をかきたてるものでした。(わざと口汚い言葉をつかう、われぇ~、こうたらんかい、くらわんかい、なんどと)
大坂八軒浜に着いて乗客が上陸するところ
17日、朝、8時前、最初に行ったのがこの三十石船の発船場と同じ場所にある宿屋「寺田屋」です。中書島で降りて5分も歩けば寺田屋と京橋につきます。京橋の下には今も発船場が当時の雰囲気を残して再現されています。
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