2019年5月26日日曜日

江戸時代に人は難なくこれくらい歩っきょったんじゃわな

20150618


 徳島港発フェリーが午前2時55分、連絡列車の始発に乗って難波に着くのは午前6時過ぎ。普通は眠る時間帯なのだがフェリーの滞在時間が2時間ちょっとなので仮眠もろくすっぽできない。睡眠不足でかなり苦しいスケジュルになるが京都旅行を格安でかつ一日たっぷり有効に使うためには辛抱せにゃならん。
 むかしゃぁ~(ワイのように80もすぎると昔話がこのようにおおなることをご勘弁ください)、小松島港発・夜の9時か10時くらいの便があって天保山に翌朝の6時過ぎくらいについた。確か阿摂航路(あせつこうろ)とかいったな。だからこれで行くとけっこう寝れた。昔も今も最下等席はフラットで茣蓙かなんかひいてあってごろ寝だがそれでも横になって眠れた。貸し毛布を20円くらいで借りてそれをかぶって船底で眠った(枕は昔から無料だったなぁ)。
 いま、四国から京都まで行こうと思ったら昨日私が行ったコースが一番安い。何せ2千五百円余りで行けるんだから(これより安いもんがあったら是非教っせてください)
 大坂は素通りするだけ、もったいない気もするが一日で京都を観光しようとするんじゃからしゃぁないわな。で難波から淀屋橋で京阪電鉄に乗り換えた。平日の朝でどえらい混雑かと思ったが、ラクラクすわれた。
 それで最初は中書島で降りてここで観光。ローカルな地名って不思議な名前のとこが多いが、さすが千数百年の古都でおます。この中書島も含めてこのあたりの京阪沿線って雅な名前が多いどす。『深草』だの『墨染』、『観月』だの、この中書というのはワイなんかは初めて聞いたとき中国歴史を思い出しました。唐の中央官制は三省と言われ、中書省・門下省・尚書省があります。その中の一つがこの中書(省)です。日本でも中国官制を真似て中務省(日本の場合は三省でなく中務省を含め八省だった)を中書省といいました。この地名となんか関係あるんやろか。
 中書島を観光して(島って言うけど島やない、でも、堀割や運河で囲まれてるから、ま、擬似的に島と言えんこともない、大昔、このあたりに巨椋池という超巨大な池があったから、大昔、ホンマに島やったんかもしれん。それから伏見のお稲荷さん、そっからまた京阪に乗って七条へ、そこで豊臣はん関係の遺跡巡りしいつつ、むかし野辺送りでとおったんやろう六道の辻へでて、大きな建仁寺を半周して川端を三条へ、ここでは寺田屋でなく池田屋を見た。寺田屋は江戸時代と同じく今も宿屋だが、こちら池田屋は今は居酒屋はんとなっている。
 最後に観光したのは池田屋近くの高瀬川の橋のたもと、ここで写真を撮ってたら、酒の匂いをぷんぷんさせた白人の若い男が寄ってきて、顔をグッと近づけ坐った目でワイに片言で何か話しかける、かみつかれないかと恐れたが、べろべろに酔ってて誰彼かまわず(キツイ酒の匂いがした)話しかけている(日本語らしいが意味不明)ようだ。もちろん相手にする人もなかったが、かなりしつこく道行く人に迫っていた。そんなかの一人にワイがあたったわけや。
 ここで今日の(京の)旅は終わったが、いや~仰山歩きました。10kmは歩いたんやないやろか。

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