いよいよ最初の巡礼の寺に向かうのであるが、何せ時代は江戸時代、いくらやまさんの妄想ブログとはいえ何の手がかりもなく江戸期の四国巡礼のブログはかけない。そこで手がかりになる江戸期に書かれた古書2冊を図書館で借りて参考にすることにした。一冊は旅日記であり、江戸前期(承応2年・1653年)澄禅によって書かれた『四国辺路日記』である。そして巡礼する寺の絵図であるが、こちらは江戸中期(寛政12年)出版の『四国遍礼名所図会』である。こちらは主に挿絵を参照した。
江戸時代の巡礼はひたすら歩く。一日に十里近く歩くため、出発は早朝となる。できるだけ歩く時間をとるためだ。その中には体を休める時間も入っている。
眉山山麓の持明院さんで一泊目を迎え、翌朝出発予定だったが、持明院さんでの遍路手形の発行手続き(江戸時代は巡礼といってもこのような手形がいるのだ)をしたり、また出発前に巡礼に最低限必要な旅の用具を買い整えたりするため、徳島の商家で買い物をしたりするので一日徳島城下で過ごすことになった。その合間に諏訪さんの宮地芝居(人形浄瑠璃)を見た。結局もう一泊持明院さんでお世話になることになった。
眉山山麓の持明院さんで一泊目を迎え、翌朝出発予定だったが、持明院さんでの遍路手形の発行手続き(江戸時代は巡礼といってもこのような手形がいるのだ)をしたり、また出発前に巡礼に最低限必要な旅の用具を買い整えたりするため、徳島の商家で買い物をしたりするので一日徳島城下で過ごすことになった。その合間に諏訪さんの宮地芝居(人形浄瑠璃)を見た。結局もう一泊持明院さんでお世話になることになった。
翌早朝、持明院を出て、佐古川の堤防の道を西へ進んだ。当時は佐古川に堤防があり、その上を道が走っていたのである。
さて、早朝出発したのであるが、今日の巡礼の道は概ね出発の持明院で教えられ頭に入っているが、今日、いくつの寺を参拝し、どこで宿を取るかは確定していない。天候の状態、初めて通る遍路路の状態、そして自らの体の状態からその日の暮れるまでに判断しようと思っている。
今日の予定順路
鮎喰川を渡しで渡る~北へ~井戸寺参拝~伊予街道へ返り~観音寺参拝~国分寺参拝~常楽寺参拝~鮎喰川川原に出て少し行き~一宮(大日寺参拝)~鮎喰川を歩いて渡り~郡境(名東・名西)の地蔵峠を越える~麻植郡に入り・・・・・・さて、藤井寺まで足をのばせるか???
現代に返り、佐古川と平行している旧道をまっすぐたどってみた。江戸時代と同じで鮎喰川土手に突き当たるに違いない。西へ向いてほとんど直線路を行くと、徳島西(昔の徳農)の正門前に出て、鮎喰土手(今は袋井用水となっているがこの反対側は鮎喰の土手である)に突き当たる。
袋井用水を越えて土手路を行くと国道の鮎喰橋が見えてくる。
今は徒歩でも難なく橋を利用して対岸に渡れるが当時はそうではなかった。渡しを利用しなければならなかった。 川の前後の旧街道の道筋から考えてこの国道の鮎喰橋の少し下流の場所と推定されるのだが橋を渡って河原に降り、対岸を見るとこのあたりと思うのだが・・・
河原で犬を散歩させているお年寄りがいるので聞いてみた。やはり大昔、このあたりに渡しがあったそうだ。ただ江戸時代といっても徳島藩の主要街道なので、もしかすると本格的な橋(木造)は作らなかったが、簡単な仮の橋(大水のときは撤去する)を渡していたのかもしれない。残念ながら澄禅の『四国辺路日記』にはどのような方法で渡河したのかは書かれていない。
どっちやろなぁ~ 左は川崎・六郷の渡し、右は富士川の仮の橋、船橋
鮎喰川を渡り街道から少し北の方へ行くと(持明院から一里とある)井戸寺がある。寛政期の井戸寺を見てみると今日と堂舎の位置は変わっていない(後で動画もご覧ください)
当時としてはなかなか立派だが、旅日記を残した澄禅が参拝した承応の頃(17世紀中期)はずいぶんと荒れ寺だったようだ。このように書いている(原文のまま)
『寺ハクズ家浅マシキ躰也、住持ノ僧ノ無礼野鄙ナル様難述言語(言葉に述べ難し)・・云々』
現在はどの寺も立派な建物になっている、澄禅の時のようなボロ寺はない、しかし現在でも巡礼の納経の時、寺の関係者の巡礼者に対する態度が、まさに、無礼野鄙ナル様難述言語、と、今も変わらぬ寺があると聞く。
まだ陽は上ったばかり、今日一日でどこまで行けるか先を急ごう。井戸寺から一旦、街道へ返り、少し行くと次の巡礼の寺「観音寺」か見えてくる。
次回は観音寺です。
次の動画は先日、蔵本~井戸寺~常楽寺まで自転車で回ったときのモノです。
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