2019年5月27日月曜日

北方探検記 その4 リンちゃんが探検しようとしたあたりはどこの国のもの

20150731

 まえがきが長くてリンちゃんがなかなか探検に出発できませんがもうしばらく日本内外の時代背景について言わせてください。
 
 リンちゃんが探検しようと思っている北方域とは樺太とその対岸のアムール川下流域ですけれどこのあたりは多くの北方民族がいました。先祖代々彼らの住む土地で、彼ら民族を統合した自前の国家はありませんでしたが、各部族が村単位で平和に暮らしていました。
 
 それではリンちゃんが探検に出かける直前の1800年頃、このあたりは国とよべるものはなかったのでしょうか。この辺りこの時代だと南に強大な帝国、大清帝国(中国)があり、北から西方にかけてはこれまた巨大な版図を持つロシア帝国があります。このあたりはそのどちらだったのでしょう。もっともいずれにも属さず、その二つの国家の空白地帯あるいは緩衝地帯ということも考えられますが実態は?
 
 結論から言うと、アムール川中下流域、樺太あたりは大清帝国の版図に入っていました。これらの辺境を納める独特の統治制度も存在しました。このような辺地において中国は人治に重点を置いていました。このあたりの少数民族に毛皮を貢納させ、代わりに彼らの欲しがる穀物織物器具類を頒布しました。そして彼らの民族なかから辺境の下級官吏あるいは世話役を選び毛皮上納や中国からの下賜品の頒布を担わせ、また秩序維持も行いました。
 
 このような辺地の統治においては人の把握の方が重要で、どこからどこまでが領土でどこからが他国の国境だという概念は持ちませんでした。その点17世紀に東漸してきたロシアとは逆です。ロシアは主権は領土や国境によって画定されるものという考えだったのです。
 
 17世紀このあたりで清・露の勢力が激突します。17世紀といえば清朝はこれから国家の絶頂期に向かうところ、対するロシアは新興で威勢の良い国で西欧の文物を取り入れて発展の可能性のある国です。どちらも強国ですが、17世紀においては大清帝国が勝りました。人口、経済でも勝負は明らか、軍事から見ると勇猛なコサックはいますが軍勢の多寡では敵いません。武器の方も、大砲は同等くらいの性能ですが数は清が上。小銃の性能はロシアが優れていましたが、清は日本と戦って(秀吉の朝鮮の役)その日本製の小銃を手に入れた朝鮮からいい性能の小銃や銃兵を補充し劣勢を跳ね返します。
 
 小競り合いはありましたが、ロシアは清と戦う不利を悟ります。圧倒的な清に対し、物量軍事もおぼつかず、これ以上の南下(シベリアからの)、領土の蚕食は無理と判断します。またシベリア開発のためには南方の中国と平和裏に交易し、生活必需品を供給する必要があります。ロシアは清と協約を結び、樺太、アムール川の域に出ないことを約束します。(後々までよく守られます)
 
 それが1689年のネルチンスク条約です。要点をあげると
 
 
・国境を額爾古納河(アルグン川)・ゴルビツァ川(露: река Горбица)と外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定める。
・鳥第河(ウダ川)と外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の間は未確定部分とする。
・額爾古納河(アルグン川)以南からロシア人は退去する。
・不法越境を禁止する。
・旅券をもつものは交易を許される。
 
地理上の境界を見ておきましょう。
 
 
 
 リンちゃんが探検にでようとしているアムール川流域あたりは完全に清朝の版図に入っているのがわかりますね。樺太は白抜きですが、ここも人治を通して清朝の影響下にあったことがわかっていますが樺太南部ではそれもかなりあいまいさが残るものとなっています。
 
 清朝の版図に入っているといいましたが、その『版図』というのは先に述べたように近代的な主権が及ぶ国土そして国境というような意味ではなく、辺土に暮らす各民族の長を辺境の制度下で組織し、また毛皮貢納・その見返りとしての下賜・頒布などを通じたゆるやかな支配、いや支配とまでも行かない、影響力を行使したというくらいが正しいんじゃないか、そのようなのがこの「版図」の実態でした。
 
次回につづく
 

 

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