20140426
豊肥の旅
豊肥の旅といってもおならをかましながら旅をしたわけではありません。まず九州の古代から区分されている地方地図をご覧ください。今日の県別と違って5つに分かれています。黄色が「つくし・筑紫」、緑が「豊の国」、赤が「肥の国」、そして紫が「日向か・ひむか」、茶が「熊襲あるいは球磨、隼人の国」です。
上図の地図でいうと今回行った旅は「豊の国」と「肥の国」です。それで豊肥の旅と言っています。古代に豊(とよ)の国、肥(ひ)の国とわかれていた国は、奈良時代以降律令制の地方区分にしたがい、豊の国は二つに分かれます。豊前、豊後に、そして肥の国も肥前、肥後になります。私が回ったのはその中の豊後、肥後の国です。(※このように古代一つの国だったものを2~3の国にわけるのは他にもあります。例えば吉備の国は備前、備中、備後に、越の国は越前、越中、越後に、)
豊の国
豊の国の特徴を上げるとすると歴史が古いことです。もちろん日本60余州(旧国名)どの地方にも古代からの歴史は存在しますが、歴史として今我々が認識するためには当時の様子がわかる文献、あるいは歴史遺物がなければなりませんね。古代を知る文献には古事記、日本書紀がありますが、これは中央の政権のあったところが中心です。全国通津浦々の歴史を網羅しているわけではありません。もし全国の各地方をそれぞれ一冊にして編集した歴史書物があれば地方の歴史がよく知ることができます。飛鳥時代までの古代にはさすがそのようなものはありませんが、奈良時代になると各地方のそのような歴史、伝承、その他をまとめた本が地方の数だけ(つまり60余)編集されます。
それが各国によってつくられた『風土記』です。もちろんワイらの故郷の古代を知ることができる阿波国の風土記』も作られました。ところが大変残念なことに60幾つかあった各国の風土記は1400年もたつうちに次々と失われ(もちろん写本も)、今はわずか5つの国の風土記が残るのみです。その5つとは、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。
つまり日本には60余国あるが古代を知るうえで最も役立つ風土記は上記の5つしか残っていません。この5つの国が古い歴史を今に伝えてくれているために、他国に比べ古代のことがよくわかるわけで、そういう意味でこの5国は歴史が古いともいえるわけです。この中に今回行った豊後の国が含まれています。
他にこの豊後の国の特徴を二つ挙げると、伊勢皇大神宮や出雲大社と同格といっていいほどの古い大きな神宮があるということです。それが『宇佐神宮』です。宇佐は八幡神信仰のルーツです。ここから分霊して京都石清水八幡宮、鎌倉鶴岡八幡宮、その他各地の八幡神社があるわけですから、ここの八幡神は全国の頂点にあるといえます。
奈良末期、孝謙女帝が皇位を弓削の道鏡に譲ってもよいか迷った時、神意を聞いたのは伊勢皇大神宮ではなくこの宇佐神宮でした。そのことからもこの神社の格の高さがわかりますね。
もう一つの特徴は石仏が多いことです。それも独立した石像の石仏でなく磨崖仏(崖の切り立った面を彫っている。バーミアンの石仏のようである)が多い。 これもここ豊後の歴史的遺物の特徴である。
まず宇佐神宮、動画でどうぞ
これは石仏群、石の供養塔の類
磨崖仏(熊野の磨崖仏より)
肥の国
肥の国は肥沃な土地からその名前が由来している気もするが、私が思うのは、ひのくに、は火の国という意味ではなかろうか。この国の幅広い面積を占める阿蘇は世界最大規模の活火山である。太古には富士山の数十倍の大火山であったが陥没して、大カルデラを作った。今も噴煙を上げている。その火山の影響は火の国全域に及ぶ。広範な火山性大地、そのあとに侵入し適応した植生、そしていたるところにある温泉、その他の火山性の自然、まさにこの肥の国は、火山が中心の『火の国』である。
草千里から噴煙を上げる中岳を望む
詳細はまた次のブログで
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