先のブログでインクラインを南禅寺見学のついでに見たことは話した。ブログを書きながら「あれは、いつだったかなぁ~」と思い出そうとしてみたが、行ったことは確かだが私が20代の時の大昔の話だから正確な日付どころか、季節も定かには思い出せない。若いころは京都に春や秋の土日によく遊びに行ったからその時かなと思ったりもするが、かすかな記憶ではたぶん夏、7~8月であったと思う。ということは仏教大学の通信課程のスクーリングの期間の休講日に行ったと思われる。通信教育のスクーリングは京都で一か月近くある。課程によっても違うが私は本科生で(4年間で卒業を目指す)あったため、スクーリングの講義も連日びっしり詰まっているわけでなく、休日、休講、それに学生同士の親睦会などがあったりして、わりと余裕があった。これが一年間で資格のみを取得する特科生だと講義は目白押しで休みもほとんどなかった。まあ、その代わりわれら本科生は4年以上かけて卒業単位を取るわけではあるが。
大学の所在地が京都でそこでのスクーリングなので休日、休講には京都市内や周辺の名所旧跡に行った。専攻が日本史だったので名所、神社仏閣、旧跡などのいわれをあらかじめ調べて回ることは勉強の補強や卒業研究の動機づけにもなるし、たまの余暇の気晴らしにもなる。そんなわけでスクーリングの期間中、南禅寺さんへ行ったのだろうと思う。
ところで南禅寺さんにはどんないわれがあるか。中世(鎌倉~南北~室町)は禅宗が大いに興隆した時代である。中世の禅宗の特徴は純粋な宗教的活動だけでなく政治活動、文化活動に深くかかわり幕府や守護大名などの上級武士に大きく影響を与えたことである。特に禅宗の中でも臨済宗の僧侶の中には室町幕府の外交にもかかわり(外交折衝を独占的に担っていたといっても過言ではない)、また将軍の政治顧問の役割を担うものもいた。文化の面でも日本の漢文学の発展に大きく寄与して「五山文学」も禅宗の中から生まれた。京都にある禅宗寺院の五山は中世史の研究や勉強にとって極めて大切なぜひ行ってみたいスポットであった。その禅宗・臨済宗五山の別格上位にあるのが南禅寺である。まあ、休日にヒョコヒョコいって別にそこで資料を見るわけではない、文献資料は大学の図書館にそろっているからそうではなくて、日本史の重要な拠点である南禅寺を見て見たい、時間があれば腰かけてなんか史的な空想に耽るのもいいな、そして気晴らしにもなるだろう、というような気持だったと思われる。それともう一つ、当時の20代の私であればちょっと恥ずかしくてブログに書くどころか口にするのも恥ずかしいようなある文学的スポットを見に行きたかったのである。もう死にかけのジジイとなった今から考えると、あれが「なんのぉ、恥ずかしことあるやろ、誰が聞いたかて、立派な動機やないかぁ」と思うがその時はそうではなかった。
当時、もう半世紀も近く前の青春時代の自分の趣味心情がはたしてどんなものであったか、今振り返って詳細に述べることはできない、仏教のある思想では、人の意識というか自我はろうそくの炎のようなものであるという、点灯してからロウソクが短くなりやがて消えるまで「炎」は一つが燃え続けているように見えるが、その実、芯をよく見れば溶けたロウが灯心を上がってきてそれが気化し燃えることによって炎は持続しているのである、芯に吸い上げられ供給され気化したロウが次々燃えることで炎が持続しているように見えるがそれは厳密にいうと直前の炎とは違っている。いわば生成消滅を繰り返しているのである、と説かれている。なるほどなと思う。そのように考えると半世紀も前の自分が、果たして今の自分と言えるのか?という根源的な疑問もわいてくる。とはいえ半世紀もたつと記憶も不確かで大概消滅したとはいいながら体験した記憶もところどころ残っているので、まったくの他人になっているわけでもあるまい。日々の日常のことは全く記憶にないが、この時、大学のスクーリングで学んでいたことは記憶の断片にもあるし、日本史の資料探しで歩いたことも覚えている。当時傾倒していた趣味や熱中したものもおおまかには覚えている。それは三島文学(三島由紀夫)の全集を全部読もうと思って読書をしていたことである。その三島文学の最高傑作のひとつ『金閣寺』のなかにある非常にエロティックな、しかし見ようによってはこれ以上ない哀切を伴った別れのシーンがある。その部分に大変感銘を受けていたのである。そしてその場所が・・・と、ここまで読まれたら当然金閣寺(ここも臨済宗)と思われようが、その場所は金閣寺でなく上記の「南禅寺」である。
普通の観光客にとって南禅寺といえば一番知られて有名なのはその「三門」である。歌舞伎にも取り上げられ有名になったが石川五右衛門がこの寺の山門の上から、「絶景かな~」と言ったというので知られている。だから観光客もこの三門に登るのが目的で大勢やってくる。史実かどうか怪しいが、観光名所はそんな場所も多い、観光目的ならば別に構わないだろう。三島の「金閣寺」の衝撃的なシーンも主人公がこの三門に登ったところから始まる。
大東亜戦争末期の昭和20年の五月、金閣寺の徒弟である主人公(当時16歳)は同じ寺の徒弟の友人と二人で南禅寺の山門に登る、上部の南の階(きざはし)から何気なく眺めたものに目をとめた。眼下には「天授庵」の庭や障子があけ放った広い座敷が見える。今、ググルストリートビューの鳥瞰図で見ると南禅寺三門と天授庵はこのような位置関係になっている。
そこに目もあやな華美な振袖を着た美しい娘が座敷に敷かれた緋毛氈の上に座っているのである。普段でも華やかな振袖を着た美しい娘は目を引くが、時は大戦末期である、異様さが募ってくる。若い女は端然と座り、京人形のように見えた。すると奥から若い軍服姿の陸軍士官が現れ、礼儀正しく50cmほど娘と離れて正座して女に対した。天授庵の座敷でのこの状況である。誰が見てもわかるように若い士官に対する薄茶お点前であろう、女は物静かに廊下の奥に消え、やがて茶碗をもって現れた。作法通りの厳かな手順を取り、士官に薄茶を進めてから元の位置に戻り座った。生きては戻れぬ前線へ旅立つ若い士官とその恋人の別れのひと時であろうと推測される。主人公とその友人二人は目を離さずその二人を三門上から凝視している。男が何か言っている、遠いから何を言っているか聞き取れない。男はなかなか茶を喫しない。その時間が異様に長く異様に緊張しているのが感じられる。女は深くうなだれている。
ここからは原文を紹介したほうがよいだろう。
信じがたいことが起こったのはそのあとである。女は姿勢を正したまま、俄かに襟元をくつろげた。私の耳には固い帯裏から引き抜かれる絹の音がほとんど聞こえた。白い胸があらわれた。私は息を呑んだ。女は白い豊かな乳房の片方を、あらわに自分の手で引き出した。
士官は深い暗い色の茶碗を捧げ持って、女の前に膝行した。女は乳房を両手で揉むようにした。
私はそれを見たとは云わないが、暗い茶碗の内側に泡立っている鶯色の茶の中へ、白いあたたかい乳がほとばしり、したたりを残して納まるさま、静寂な茶のおもてがこの白い乳に濁って泡立つさまを、眼前に見るようにありありと感じたのである。
男は茶碗をかかげ、そのふしぎな茶を飲み干した。女の白い胸元は隠された。
主人公二人は衝撃的なこのシーンに見入ったが、あとからこれは、士官の子を孕んだ女と、出陣する士官との、別れの儀式であろうと推測する。
「金閣寺」といえばノーベル文学賞候補にも挙がった、高校の教科書にも取り上げられるような純文学の最高傑作である。その一シーンにこんなエロティックな場面があることに初めて「金閣寺」を読んだときは驚きであった。官能的で性的な暗喩を含む表現はいろいろあるが、男女二人の別れのシーンによくまあ三島はんもこんなこと思いついたなとおもった。厳しく簡素な薄茶お点前の儀式にこんな思いがけないことが展開するとはこれ以上ない官能的で濃密な別れである。やはり天才といわれることはあるなと感心する。
そういうわけで私の若かりし頃、京都にスクーリングに行っていたちょうどよい機会でもあり、三島文学にはまっていた時でもあってこの衝撃的な小説の一場面の舞台であるその南禅寺に行ったのである。それから約半世紀がたった。歳がいって純粋な感動も薄れ、いらぬ知識や、ショ~もない経験を重ねると、いまこの原文をよんでも若かったころの感動は味わえなくなっている。それどころかいびつに歪んで折れ曲がった人生を経験して素直でなくなったジジイになるといろいろ突っ込みを入れたくなる。士官の子を孕んだ娘との別れということだが、乳を揉みしだいて、はたして乳がほとばしり出るか?男なのでハッキリ断言はできないが、子を孕んでいるとあるが主人公が見た限り、臨月ではなさそうで妊娠しているだけで母乳が出るのだろうか?もっとも、主人公は、見たとは云わないが・・とあるから、主人公の頭の中のみで見えたイメージに違いない、しかし、士官はそれを押し頂いて飲むから、士官、娘、それにそれを見た主人公も抹茶の中に乳がほとばしり混ざったことを前提に行動しているのがわかる。実際に乳がほとばしったかどうかは恋人二人にも主人公にも重要ではないのである。
文学的事実とでも言うのだろうか、こうゆうよく似た表現は古典にもある。もしかすると三島由紀夫はこの古典からこの部分を取り出し換骨奪胎して使ったのかもしれない。それは古典文学『大鏡』にある次の話である。
藤原道長が天皇の妃として宮中に上げている妹、藤原綏子・すいし、が一廷臣と不倫をして、噂となり宿下がりをしたが、どうもその不倫相手の子を妊娠しているのではないかと疑われ、兄として道長がそれを確かめに行くのである。その確かめ方がすごいのである。
兄道長が妹の装束の胸を開け乳房をだし、それを揉みしだくのである、そうすると兄道長の顔に乳がサッサッと走りかかるとある。それで妊娠があらわとなるのである。
古典をいろいろ読んでいてもこの大鏡のこの場面ははかなり衝撃的で印象深いシーンであり、何十年たっても忘れられるものではない。これもツッコミを入れるとただ妊娠しただけでは母乳はほとばしり出まいといわれるが、「金閣寺」の小説と同じように大鏡の物語の中での妊娠を劇的に示す文学的表現なのであろう。こういうところから古典文学に造詣の深い三島がこの場面を金閣寺の中に使ったのかもしれない。
おまけ
先日文化の森の図書館前に『眠り猫』がいた。近づいても知らん顔でピクリとも動かないから彫像のようだ。「おまいは、東照宮の眠り猫か!」
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