2011年6月5日日曜日

つばくろの子育てを見て思うこと

 駅の軒下にあるツバメの巣の雛もずいぶん大きくなった。一週間前に見たときはまだ小さな雛だったが、今日見れば、もう親と変わらず・・・・・・

 「お、今、親が餌を運んできた。なんと!親よりでかい!」

 ところで、親ツバメの体。昔からよくあるフォーマルな衣装に例えられているのを思い出しませんか。白と黒のツートンカラー、ツバメの名前にちなんだ服。
 そう「燕尾服」です。
 このちょっと気取った格好のツバメ、またスリムで繊細な体もしてますね。

 さあ、それで、このでかくなった雛との対峙です。巣からはみ出さんばかりに出てる雛、頭の部分しか見えませんが親よりでかく見えます。倍以上の頭に見えます。
 その雛が、ピヨピヨ、ならぬ、ピチュピチュピー、一斉に鳴いています。親がくわえてきた餌を兄弟の中で一回でもらうのは雛一羽ですから、必死に
 「我が最初じゃ!」
 とアピールのため口を頭の大きさ以上に大きく開けることになります。

 そのため、小さな貧相な親はでかい雛に飲み込まれそうになって餌を口に放り込んでやります。
 小さい雛なら、可愛げもあるがこんなにでかくなって、

 「親も苦労するな。」

 実は雛は見かけほど実態は大きくありません。鳥は雛のうちは産毛がふわふわして実体以上に大きく見えるのです。まえにペンギンの雛の茶色のでかいラグビーボールのような姿にびっくりしたことを思い出しました。
 もう巣立ちも近いのでしょう。

 一週間前のまだちいちゃな雛がピーピーいってた時の可愛さはだんだん薄れましたが、親は巣立ちまで例え自分が食べなくてやせ細ろうが、雛が見た目自分よりでかくなろうが、せっせと餌を運びます。
 30歳過ぎた引き籠りの子に親がやつれようが、つかれようがせっせとつくす人間界のことをちょっと思い出しました。

 これなんか見るともう「いじらしいような、せつないような、愛情」ですね。古典語で『かなし』という語があるんですけど、現代語の「悲しい」という意味でなく、このような「いじらしいような、せつないような、愛情」なんです。

 人、特に日本人はこのような鳥たちに「愛情」の純粋の形を見て、「愛情」の美しさのお手本としたんですね。

 親が子を思う愛情の深さは

 「焼け野のキギス(雉子・きじ)。夜の鶴」

 と言われます。野焼きで巣が焼かれるとキジは子を守って焼け死にます。巣に霜が降りる寒い夜、鶴は羽を広げ子を寒さから守ります。

 また男女の愛情の深さも鳥にお手本を見ます。

 「鴛鴦の契り」

 オシドリはいったんつがい(夫婦)になるとどちらかが死ぬまで仲良く一対で行動します。

 もちろん、鳥は本能に基づいた行動であり、パターン化されたものであります。しかし、それを美しいと見、愛情の純粋なものとして手本に取り上げ、人のこころに受け取られたことが重要です。

 高度な知能を持つ人は本能に基づいたこのような愛情をさらに発展させ、高次なものにしていきます。
 このような高次な「愛」への思索にかけてはキリスト教の坊さんがお得意ですね。彼らは子を持つことも妻を持つことも禁じられています。
 だからこそ、子や妻への「愛」を超えた上次元の「愛」を説けるのかも知れませんね。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

 う~~~。結論がすごいですね。今年最大の気づきになるかも・・。次元を一つ上げて物事を見るのは、たまに試みるのですが、遺伝子に組み込まれた思考パターンを超えるために、あえて本能を抑制し、本能を超えていくということしょか? 私は超える前にストレスの塊になりそうです。

yamasan さんのコメント...

 いつもコメントありがとうございます。

 恋し、かなし、と鳴くセミよりも鳴かぬ蛍が身を焦がす。

 今月中旬まであちこちで見られます。

 ほたるなど見て、

 ホッとしたいですね。