わが町に残っている一番古い伝世の(捨てられたり、埋められたりせず代々持ち伝えている)ものは古いものでもせいぜい平安末期ころの仏像と言われている。ところが隣町の石井町の神社には奈良時代初期の墓碑の磚がある。ご神体とされているため、手ンごろ易く見せてはもらえないが、神社の境内にはその墓碑の磚のカラー写真と書かれた文字と意味、納めた当時の豪族名などを表示した説明板が立っている。
今日、江川を下って、石井町の覚円まで自転車で行ったついでにこの神社にもいってその説明板を見てきた。南山のふもとと聞いたが、少し山を登った高い位置に神社はある。
中王子神社の正面
境内にある説明板、養老7年というから西暦722年、この年代のものだと、弘法大師よりも100年は古い。伝世のものとしては誇ってよい古さだ。
墓碑の磚の写真拡大図
これを納めた氏族の名前は『粟凡直』と書いてある。読み仮名を打ってくれてない。専門家でも読み方が確定していないのであろうか。私は「あわのおおしのあたえ」と一応読んだが、どうだろう。
古代は平野部は吉野川や中小河川が我が物顔に氾濫を繰り返し、農業するにも居住するにもむつかしいところである、そのため古い時代ほど、標高の高い丘、山すそ、扇状地などに農地や居住地が集まっていた。神社は小高い山すそにあり、平野部を眼下に眺める位置にある。この豪族もこの神社を中心にした高地にその根拠地があったのであろう。この山すそを1kmあまり西に行ったところ(童学寺のすぐ下)にはやはり古代に作られた「石井廃寺」跡の遺跡がある。