2019年6月2日日曜日

山頭火、撫養から旗山へ

20181118

 山頭火の四国への旅は10月1日に海路で松山に入るところから始まっている。しかし愛媛、香川、小豆島の霊場を回った一か月間の日記は俳句のみを記していている。そして阿波路に入った11月1日から文章と俳句を交えた日記になる。この11月1日の山頭火の行ったところを私は今日たどってみました。

 四国遍路日記より

 ---有明月のうつくしさ。
 今朝はいよいよ出発、更始一新、転一歩のたしかな一歩を踏み出さなければならない。
 7時出立、徳島へ向ふ、(先夜の苦しさを考へ味はひつつ)

 この日の日記の第一番目の俳句は、彼が日記冒頭で「有明月のうつくしさ」といったように朝空に残る月を詠んでいる。

 旅空ほっかりと朝月がある

 ネットの威力はすごいもので調べると昭和14年の11月1日が旧暦の9月20日に当たるのがすぐ分かった。そして同じネットで調べるとこの日の月の入りは午前11時前後、ということは朝7時に宿を出た時は月はまだ空高く浮かんでいたはずだから、それをみてこの句ができたのである。
 そのあとの文章には、撫養を含めた板野郡東部の80年前の風景の描写がつづく。

 このあたりは水郷である吉野川支流がゆるやかに流れ、蘆荻が見わたすかぎり風に靡いている、水に沿うて水を眺めながら歩いていく。
 宮島という部落へまわって十郎兵衛の遺跡を見た、道筋を訊ねたら嘘を教えてくれた人がある、悪意からではなかろうけれど、旅人に同情がなさすぎる。

 80年後のこの辺り、松茂から川内町に住んでいる人は御存じのことだが、徳島のベットタウンとなって宅地造成され、湿地は乾燥化されかさ上げし、自然水路もほとんどなくなり、護岸された放水路だけが何本か残っているだけである。山頭火さんが見たような「蘆荻が見わたすかぎり風に靡いて・・」というような風景は全くない。
 じゃけんど、どっかにまだそれらしきところは残っておれへんやろかと探すとありました。シラサギ大橋の徳島側堤防の歩道をちょっと西へ行ったあたりの吉野川の河川敷きの中洲あたりに!山頭火の見た風景を彷彿とさせるものが残っていました。こんなとこ山頭火はんはとぼとぼ歩いていたんやなぁ。
 あ、それから山頭火はん、十郎兵衛跡を聞いたらゴジャブラァ教っせられたっていってるが、本人も言っているように教える人も意図してでなくゴジャを覚えてたんかもしれんから、旅人に同情がないとはちょっと飛躍しすぎ、でも裏読みするとこの日記に書かれていないなんぞ別のコトで(必ずしも言葉でなく態度で)この宮島部落の人々がオヘンドさん(山頭火)を見下すような態度があったんかもしれん。
 そういうワイも小松島の大田んぼの中を歩いていて、探す遺跡がわからず、一人で工事している人がいたので聞いたら、こっちは丁寧に聞いているのになんか怒ったような態度で、仕事しよるからなぁ~、交番で聞け!ってケンモホロロノたいどやったわ。そんな大田んぼが広がる荒野みたいなとこのどこに交番がある?ま、人の好意を当てにするのは道を聞く場合でもおんなっじやが、好意でかえってくると当てにしたらあかん、どこの馬の骨ともわからん旅人やから無視されても文句はいえんのやと思わなしゃぁない。

 上記日記で出てくる宮島という字名はこの川内町・宮島の「金毘羅神社」からきているのだろう。シラサギ大橋を自転車で降り切ったところにあった。さっそく参拝する。

 まず、この石の大灯籠のおぶけかえった!たしかに市内大道の金毘羅はんの石灯篭のほうが大きいがあっちは江戸時代から自治をまかされた大商人のいる町巨大な石灯篭をつくることができる。、しかしこちらは江戸時代は○○村(たしか中富村?ちょっとわからん!)っちゅう村落、そんなところの神社にこんな大灯籠を寄進したということはこの神社の氏子の財力にビックリする。そう思って石灯篭の下を見ると風化で読みにくくなっているが『藍○○講』とかの文字、やっぱそうや、この財力、藍関係の庄屋や商人だろう。

 高い大きな石灯篭なので灯明をあげる石の階段がある。なんとこれ一本の大きな石柱をくりぬいたもの大したもんや。元号は風化で読めなかったが同じ境内の立派な狛犬さんは江戸中期「安永」の年号やった。

 そこから十郎兵衛屋敷跡はすぐ。今はこのように観光化されてまるでどっかの観光地の武家屋敷のようになっているが80年前の山頭火はんが訪れた十郎兵衛は遺跡といっているから、屋敷も何もなくただその場所を示す石柱なんかがたっているだけのものだったのだろう。

 十郎兵衛屋敷の駐車場の横は常時水の引かない湿田がある。近年乾燥化(排水路をつくりその掘った土をかさ上げする)する前は、このあたりはみんなこんな湿田や湿地帯だったのだろう。なるほど山頭火さんが「水郷地帯」っつうたのも頷ける。

 そこから山頭火はんは夕食時までに小松島の旗山まで歩いていった。私も歩くのは無理でもそのまま自転車で旗山までとおもったが、ここまででかなりくたびれかえっているので徳島駅まで自転車で行きそこから汽車にのって(蒸気賃は260円)南小松島まで行った。

 再び山頭火はんの日記の続きにかえろう。

 発動汽船で別宮川を渡してもらう、大河らしく濁流滔々として流れている(渡し賃は市営なので無料)。徳島は通りぬける、ずいぶん急いだけれど道程はなかなか捗らない、日が落ちてから、籏島(義経上陸地といわれる)のほとりの宿に泊まった、八十ちかい老爺一人で営業しているらしいが、この老爺なかなかの曲者らしい、嫌な人間である。調度も賄いも悪くて、私をして旅のわびしさせつなさを感じせしめるに十分であった(皮肉的に表現すれば草紅葉のよさの一端もない宿だった!) 

 今はもちろんその宿もなくなってはいようが、旗山は今もある。そこまで行ってみた。汽車を南小松島で下り、小一時間歩いてようやく旗山が見えてきた。(山頭火はんは籏島と書いてるが現在は旗山と一般に呼ばれている)

 80年もたつので今は当時の遍路宿、木賃宿はない。籏島のほとりの「もみじ屋」という宿に泊まったとある。このあたりだろうか。

 旗山は標高20mの小山である。あっという間に登れる。下の写真は最高峰?、ここは義経伝説の地である。その石碑が最高点に立っている。

 そこから小松島市街を望む。

 最高点から少し降りたところに弓を持ち馬にまたがった義経の大きな銅像がある。

 気に入らないキチャない宿で、それもあってか、いやそうでなくてももともと酒好きで毎晩やっているのだろう、本人は旅情をまぎらすためとかいってるがアルコルを(日本酒か焼酎かわからんが)やっている。
 日記の締めくくりは

 同宿四人、修業遍路二人、巡礼母子二人。
 何だかごみごみごてごてして寝覚勝な夜であった。

 南小松島駅から旗山までの途中、弘法大師さんのこんな史跡があった。


 補足・山頭火はんの足跡・別宮川

 80年もたてばその時代に生きていて実際に使われていた言葉も今の我々からは想像できないくらい変化して意味もわからなくなったり、すでに使われなくなった言葉もある。現在、徳島の川内や住吉、沖の洲に住んでいる人をひっつかまえ、堤防に上がり、前に流れる大河を指して、この河なんちゅうん?てきくと百人が百人とも『きまっとうでぇ~吉野川っちゅうんじょ、あんた知らんかったんぇ」っていうだろう。いまこの大河を指して別の呼び方をする人はまずいまい。

 しかし大昔からこの河を吉野川と呼んだか、といわれるとそうではない。この名前に固定したのはそんなに古い時代ではない。江戸時代はまずそう呼ばなかった。っちゅうか、そんな大昔はこの大河の流れの本流自体も固定せず、いくつかにわかれて、徳島平野を南から北へアッチャコッチャのたうち回っていたのである。さらに本流くらいの太さの川が分流して二本も三本もに分かれていれば、固定した名さえ意味をなさない。しかし藩政中期を過ぎると堤防や堰堤で次第に流れが固定されるようになりようやくそれ自体を指してもいつのまにやら流れが変わるっちゅうこともなくなった。

 文書館にいた時、山頭火はんの日記を展示してあるところに大学生と思しき女性二人がいた。11月1日の日記を読みながら、「ちょっとぉ~、この別宮川を船で渡ったって書いとるけんど、どこの川ぇ~」と相方に疑問をぶつけていた。もはや別宮川といっても平成末の子ぉらにはわからんのである。しかし逆に考えると80年前の徳島の川内あたりでは前に流れる大河を『吉野川』と呼ばず、少なくとも一般的には「別宮川」呼んだのがわかる。

 日記をよく読むとまず、川内の宮島にいって十郎兵衛遺跡をみてそのあと市営無料の発動汽船で濁流滔々の河を渡ったって言っているんだから、早朝、撫養から出発したときに通る「今切川」とも「旧吉野川」とも違いまさに本流の「吉野川」だったことがわかる。山頭火はんの日記は、今徳島に住む原住民でさえもうとっくに忘れてしまった、当時のことをいくつも教えてくれる。

 まず、渡船である。渡し舟というにはもはやこの昭和14年は古風すぎるだろう。渡船は発動汽船である。しかしここでちょっと待て!である。確かこの大河「吉野川」を横切る立派な鉄橋ができたのは昭和3年である。できて11年もたっている。ふつう鉄橋ができれば渡しは廃止になるがそれはどうなのか?しかし考えてほしい、ここは川内である。今なら手ンごろ易くみんな自家用車に乗るか、そうでなくても自転車で渡るだろう。しかし、昭和14年、自動車どころか自転車でも持っている家は多くない。歩くかようやく普及し始めた乗り合いバスでここ川内地区から徳島市内へは出ていかなければならない。いくら「吉野川大橋」を利用できるとしてもすぐ手近の川内の渡船場から出る船のほうがずっとずっと便利である。ここからホイっと乗ればほとんど歩くことなく対岸の住吉あるいは吉野町あたりにポンと着く。大変便利である。それに市が運営しているので無料ときている(これもこの山頭火はんの日記でわかった)、貧しい市井の庶民が川内へ行き来するのにこちらを使ったのは当たり前である。

 80年前は当たり前の交通手段であったが、こんなことがわかるのも山頭火はんの日記を読むからである。

 今は橋が何本もかかっていてここ川内からは最新にできたシラサギ大橋を通れば自家用車であっという間に徳島中心部へ行ける。下はそのシラサギ大橋、下を流れるのは80年前は別宮川と呼ばれていた吉野川。今はさらに下流、下流も下流、下流とも呼べぬ河口沖合に高速道路の新しい橋の橋脚ができている。


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