2019年6月26日水曜日

古代阿波の廃寺2 郡里廃寺の近くにある段の塚穴

 先のブログで郡里廃寺を紹介しました。この寺はおそらく7世紀の終わりころ創建と思われます。それより少し古い古代遺跡がこの郡里廃寺から東へ2Kmばかし行ったところにあります。古墳時代末期に作られた円墳群がそれです。その円墳にある横穴式石室は大きさと言い、そのしっかりした構造と言い立派なもので全国的にも注目を浴びています。現在、我々が見学できる円墳群は2つあり、太鼓塚古墳、棚塚古墳と名づけています。

 美馬市の観光ホームページから引用させていただくと次のようなものである。

 <引用>

 段の塚穴は、徳島県美馬市美馬町字坊僧の河岸段丘先端にある2基の古墳のことです。2基の古墳は、どちらも古墳時代後期(約1400年前)につくられたもので、約25mの距離を隔てて東西に並んでおり、東の大きい古墳が太鼓塚古墳、西の小さい古墳が棚塚古墳と呼ばれています。特に太鼓塚古墳は、その石室規模や特異な構造から、四国の古墳時代史解明に欠かせない重要な遺跡であり、昭和17年に徳島県初の国史跡に指定されています。

 太鼓塚古墳は、直径約37m、高さ約10mの円墳で、中心部には埋葬施設として横穴式石室があります。石室の規模は、全長13.1m(玄室長4.8m)、高さ4.3m、幅3.4mで、四国最大級の石室規模です。また、その構造は玄室(棺をおさめる部屋)をドーム状にするという特異なものです。

 棚塚古墳は、直径約20m、高さ約7mの円墳で、埋葬施設として横穴式石室をもちます。石室規模は、全長8.7m(玄室長4.5m)、高さ2.8m、幅2.0mで、太鼓塚古墳と同じく、玄室をドーム状にする。また、玄室奥壁には、古墳の名称の由来と思われる立派な石棚がある。

 古墳時代の終末期は7世紀末である、とすると先に見た「郡里廃寺」の創建年代と重なってくるのではないか。先に引用した観光課のホムペによると(もちろん専門家である教育委員会の学芸員が作成したものだろう)この古墳群は約1400年前につくられたとかいてある。そうするとピッタリ重なり合うわけではないが郡里廃寺の創建年代とは100年未満の違いしかなくなる。

 わずか2Kmの距離でかたや当時四国一の大伽藍寺院、かたやこちらも百年を遡らず四国一の大きさと立派さを誇る横穴式石室を持つ古墳、どちらも同じ氏族の豪族が作ったと推理されるのは当たり前である。専門家もやはりそのように見ている。具体的な氏族名はわかっていないようだが、古墳~飛鳥~白鳳時代にかけて地方の豪族は今の郡単位の広さの勢力圏を持っていて、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)、直(あたい)などと呼ばれていた。そういった豪族であろう。寺と古墳が100年未満の期間しかないということを考えると、もしかすると郡里廃寺を作った豪族のジイチャンかヒイジイチャンがこの横穴式石室の被葬者だったのかもしれない。

 その太鼓塚古墳、棚塚古墳を見学行きました。一般的には「段の塚穴」と呼ばれています。もし見学される場合は、わずかな距離でしかも同じ豪族が作ったものと思われているので郡里廃寺とセットで見学することをお勧めします。

 羨道から玄室までしっかりした石造りなので1400年たった今でも羨道を通って玄室まで中に入って見学できます。あらかじめ懐中電灯を持っていったので玄室まで入って石壁、天井も観察してきました。太鼓塚古墳は羨道の幅も玄室も広いので余裕であちらこちら見回せましたが棚塚古墳は羨道が狭いうえに低く、しゃがんで入った玄室も小ぶりで光もほとんど入らず、懐中電灯の光もおぼつかなく、暗く湿った場所でした。おまけに上からは得体のしれぬものがポタリポタリトと落ちてくる音がするので不気味でした。この感じは、古事記に妻イザナミが黄泉の国に旅立った後を慕って夫イザナギが黄泉の国を訪れる話がありますが、その黄泉の国へ行く暗い道筋、そして死者の国の住人となった妻イザナミが暮らす黄泉の国の部屋などを彷彿とさせます。古事記が口承されていた時代はこの横穴式石室の古墳の時代であります。なんかこの古事記の記述はその記憶(死者を葬るため羨道を通って玄室へ行く)が元になったのじゃないのかなと思います。

 説明板拡大図

 石の説明碑もある

 こちらが大きいほうの太鼓塚古墳石室入り口、羨道を通って入ると中の玄室は意外と大きくて広い。

 入り口からつづく羨道

 玄室内でフラッシュをたいて上向きに撮影する。

 こちらが棚塚古墳、羨道は狭く低い、屈んで玄室に入る。

 まとめ動画

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