2019年6月25日火曜日

古代阿波の廃寺1 郡里廃寺

 寺が古いということは、それだけでなにか尊いものである。しかし創建時の寺の建物は幾星霜を経る間に朽ちたり、火災にあったりして消滅してしまう場合が多い。千年以上も前に創建された寺などはほとんどがそうなっている。しかし創建当時の寺は残っていなくてもその場所に寺が再建され、本尊、あるいは寺宝など創建時のものが残り、もちろん寺の名前も変わらず、同じ信仰を伝えていれば創建当時から途切れず続く寺と見てよいだろう。

 日本に仏教が正式に伝えられたのは6世紀といわれている(西暦538年説と552年説がある)、だから日本で一番古い寺は当然この時代に作られたものであるが、寺らしい伽藍配置の建物群が出来たのは仏教公伝より少し遅くなる。西暦587創建の飛鳥寺が最初といわれている。この寺は今も奈良県明日香に存在するから、もっとも古い寺といっていいだろう。しかし最古といえばこの飛鳥寺より法隆寺の方が有名である。法隆寺の方はこの飛鳥寺より20年ほど創建は新しいが、こちらは7世紀後半一度火災にあって再建されてから以後、火災にあうこともなく補修はしたが当時の建築が今も残っていて、結局世界最古の木造建築物となったので、実質、もっとも古い寺と言ってはこちらの方を第一に挙げている。

 この阿波で古い寺を挙げるとするなら8世紀聖武天皇の発願で国ごとに作られた国分寺が思いつく。この国分寺は今もほぼ当時の位置に同じ名前で存在している。しかし当時の建物は当然残っていないとしても当時の本尊や寺宝が残っているかというとそのようなもので継承されたものはないし、中世には廃寺となっていた時期もあった、さらに近世になっては宗派が曹洞宗の寺になっている。そうなると名前だけは国分寺だが、聖武天皇ゆかりの8世紀から続く古い寺とはちょっと言えない。この国分寺の少し北にやはり聖武天皇発願の国分尼寺の廃寺跡があるが、8世紀天平時代の国分寺も名こそ今に残ってはいても実際は廃寺となっているといっていいだろう。

 その廃寺をこの阿波の中でさがすとかなり古い寺が存在していた。もちろん上記の国分寺よりも古く7世紀後半から8世紀のごく初期創建とされる廃寺がいくつかある。そのような古い阿波の廃寺は3つ知られている(しかし今後発掘や発見があればもっと増えるかもしれない)「郡里廃寺」「川島廃寺」「石井廃寺」である。その3つの廃寺を見て回ってきたので今回はその中の「郡里廃寺」をとりあげます。

 まずその創建の古さだが、西暦何年と正確に判明しているわけではないが、発掘の考古学的な検証などの結果、複数の専門家の一致するところは「白鳳時代」であろうとされている。〇〇時代とあるからには、一定期間の長さがある。白鳳期とは天武天皇前後の時代と言われているからだいたい7世紀後半から8世紀初期までくらいである。西暦で言うと大化の改新のあった645年から平城京への遷都の年710年頃までの幅がある。

 ずっと後の8世紀中ごろの天平時代、聖武天皇の命令で全国各地に国分寺が作られたのは先に述べたが、天平時代の国分寺のように地方の寺院は何か大和地方の中央集権的な命令や権威で作られたようなイメージがある。命令ではなくても地方にできる寺院は、中央の仏教寺院をまねて、あるいはその様式が地方にじょじょに普及して作られたと考えがちである。だから大和地方の寺院よりずっと遅れて創建されたのではないか、また地方へ伝播するにつれて劣化コピーとなり伽藍の規模や建築様式も貧弱になっているのではないかとの先入観があるかもしれないが、この郡里廃寺を見ると大和と同時並行に立派な伽藍建築の寺院が創建されていたことがわかる。しかしよく考えると、仏教はインドに誕生しインド北西部のガンダラ地方で仏像や大乗の教えが確立して以降、そこを出発し、仏教は東へ東へと伝播してきた(仏教東漸)そしてその東の端のどん詰まりがわが日本である。仏教も日本列島の西の端の九州に上陸し次に中国地方や四国地方、その間に挟まる瀬戸内海を東へ進んできたのである。そのような流れから考えると、九州、中国・四国地方が初めて仏教の洗礼を受けたのは大和より早くても不思議ではない。だから九州西国のほうが(阿波も含む)大和地方より早く、規模はともかく仏教寺院が建てられていた可能性は否定できない。

 また大和地方は全国政権である大和朝廷が存在している。その政権は有力豪族の連合政権でありその上に「大王」(おおきみ)が君臨する構造であり、その有力氏族の中には神事をつかさどる有力豪族もいる。そのような豪族が崇めるのは古代からある伝統的な宗教、古代神道である。これに対し仏教は異国から伝わった全く新しい宗教であった。すんなりと受け入れるにはそうとうな抵抗がある。日本書紀によると仏教容認派の蘇我氏に対し反対する豪族が多かったとある。そんな中央豪族よりむしろ地方の身軽な小豪族のほうが、いろいろな思惑でせめぎあう大和の中央豪族より、すんなりと仏教を受け入れたのではないだろうか。素晴らしいから受け入れるという点では地方豪族のほうがずっと素直だったわけである。彼らにとって魅力的だったのはその「教え」よりももたらされた「仏像」のキラギラしく輝く荘厳さがまずはじめであったような気がする。そして仏教に伴ってやってきた建築技術は地方豪族にとって斬新で誇るべき権威の象徴として全く素晴らしいものであった。瓦葺の大伽藍、そびえる塔、響く鐘楼の鐘の音、舶来の異香、などなど、見たことも聞いたこともないモダンなものばかりである。そのうえ仏像や経を崇めることにより現生利益がかなえられ、後生も救われるとなれば、財力がある地方豪族が仏教を受け入れたのも頷けることである。もしかすると大和地方とはほとんどかかわりなく、直接大陸の方から(仏像や、経、建築技術を持つ帰化人)などを取り入れて寺院伽藍を作ったかもしれない。実際にそのように指摘する研究者もいるようである。そう考えてもよいほど大和の寺とこの阿波の西部にある郡里廃寺は同じくらいに古いのである。

 それでは以下、私が見学した郡里廃寺を紹介しましょう。(6月24日見学)

 寺域の北の部分からが入り口となっている。入り口の横には長樹齢の銀杏の大木とお堂がある。入り口を入ったところに説明板がある。


 わが阿波国では一番古い伽藍建築寺院と聞いていたが、説明の立て看板を見ると「四国最古」となっている。

 どんな寺だったのか、想像して書いた図が掲示されてあった。東西94m、南北120mの敷地に立つ寺院である。庶民が竪穴式住居に近い建物に住んでいたこの時代、瓦葺のこの大伽藍が人々の目にどのように映っただろうか。

 今、発掘作業も終わり史跡公園の整地が進められている。地上から見える廃寺跡の名残りは、上図の想像伽藍図の塔の基壇部分が少し盛り上がったマウンドになっており、また当時の塔の礎石が二個その上に残っていて見えている。二個のうち東の方の礎石は当時の位置のままである(左の石)、二枚目は反対から撮った写真で二つの礎石のうち右が当時の位置の礎石となる。


 その塔跡の説明板

 寺域の南東の隅部分にも説明板と寺域図がある。南東部分からの眺めと説明板


 廃寺の敷地部分は今後史跡公園として整備される予定である。今は広い荒れ野になっている。

 まとめ動画

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