2019年6月1日土曜日

小松島のみなと

20180907

 小松島は港町だがそれほど古い港町ではない。ダイジェスト版の郷土史でちょろっと調べると江戸時代もかなりたってから開けた港町らしい。でも駅から小松島港に行くときに通る大橋のたもとにこんな碑があった。

 元亨二年(西暦1322)というから鎌倉時代である。そんな古くからここは港町であったのかと思われるがこの碑文の『小松島港』というのは小松島市の海岸沿いにあった港という意味で受け取ったほうがいいだろう。義経が上陸したのは金磯の方の旗山というところだから、今の小松島港より南の方の海岸沿いになる。また港の北方には勝浦川が流れているがこの河口周辺にも船着き場「津」があったと思われる。ここらが中世から近世にかけての港であったと思われる。

 ところでこの元亨年代頃、海外渡航で有名な船といえば中学高校の日本史で出てくる「社寺造営船」がある。「建長寺船」、「天龍寺船」とかいう言葉を聞いたことがないだろうか。社寺が自分ところの寺の造営費用を得るため幕府に頼み、中国の元や明に貿易船を派遣する権利を授けてもらい、その貿易の利益を社寺の運営に回すというものである。実質は博多の商人あたりが仕立てた船である。

 この時代のこの辺りの海域は海外渡航のルートと違うが、阿波から紀州へ、あるいは鳴門撫養あたりを経由しつつ畿内へ、または土佐から畿内への中継地として小松島の(金磯、勝浦川河口)港が使われたと思われる。

 上の碑文で海賊が近海をあらしまくり、と書かれてあるが、紀貫之が土佐国司を辞して帰るとき、ここらあたりの海賊の猛威を書いているから海賊は中世では常態だったのだろう。でも海賊もむやみやたらと襲ったわけではない、同族やあらかじめ話がついている商船(一定の金を払うことを条件に)は襲わなかった。上の碑文で述べている唐梅の紋章も何らかの形で海賊と話がついていた船ではないのだろうか。ちなみに唐梅の紋章はこの大橋のエンブレムとして主柱に埋め込まれている。これがそうである。昔は小松島市の市章だった。

 中世の海賊で有名なのはやはり歴史で習った「倭寇」である。倭寇の本拠地は九州の五島列島や対馬そのほか九州の沿岸あたりだ。しかしこの元亨二年(1322年)は初期倭寇が発生するよりまだ30年ばかり早い。

 中世に大きかった港は「三津七湊」といわれている、下図である。しかし残念ながら小松島あたりには大きな港はない。小松島あたりの港は船着き場に毛が生えた程度の貧ちょこまい港だったのだろう。そうそう、五年前、津軽へ旅行した時、「三津七湊」の最北部にある十三湊の近くの(亀ヶ岡遺跡)まで行ったのだが、津軽南部海岸にある不老不死温泉に早ぅ浸かってくっつぉがな、とかゆう話になって十三湊はパスした。今から思うと残念だった。


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