2019年6月2日日曜日

厳島神社エピソード1・一遍はんと厳島

20181103

 厳島参詣したのが一昨日、一番有名な本殿とすぐ横にある不動堂と弁天社を参拝を兼ねて見学したが、あまり時間もないので他は見られなかった。神社の所蔵の国宝で見たかったのは『平家納経』など平氏全盛時代に神殿に奉納されたものであったが宝物館にはレプリカのみで本物は今月の17日から公開ということで見られなかった。レプリカなど拝観料を払ってまで見る価値はないので宝物館も入らなかった(レプリカを見るくらいなら、図書館の美術全集の平家納経をじっくり手元で見るほうがいい) 左が平家納経の一部

 帰ってから厳島神社について調べると、本殿以外にも見たかったところがたくさん出てきた。しかし、時間の制約もあるし、宮島の山に入って長距離登山はきついし、仕方なかった。

 ところで厳島神社の見学客は外国人が多かった。連絡船で宮島へ渡るのだが(所要時間10分)、乗客の半数近くは外国人とおもう。海中に浮かぶ社殿、朱の鳥居、木々に覆われた背景の山々、などなど風景は日本的で美しいため、外国人観光客にも人気なのであろう。外国人ばかりでなくそういえば昔からこの厳島神社の風景は日本三景の一つに数えられていた。(他二つは天橋立、松島である)

 大昔からわがご先祖様は、美しい風景や、特徴ある山には神社や寺を建立してきた。せっかくの美しい風景なのに人工的なものを建てて邪魔、とも思われようが、最長千数百年~数百年たてば神社や寺は風景に溶け込み一体となってその風景の美を作っていく。さらにいいことは平安時代からわがご先祖様は美しい風景のところにたびたび旅をした。貴族や武士だけでなく一般庶民でさえも。これは各地の美しい風景には必ず寺や神社があり、モノ参りにかこつけて巡礼参拝すればおのずから風景を愛でる旅となったのである。

 そんな旅は江戸時代からとも思われようがそうではない。平安の昔から庶民も含めてモノ参り、巡礼参拝の旅は頻繁に行われたのである。源氏物語の『夕顔の巻』には下層民の御嶽精進(参拝)の話が出てくる。御嶽とは奈良吉野の山岳にある修験道の聖地である。庶民も何泊か覚悟でここに参っていたと思われる。

 御嶽よりは遠く、海路も利用したであろうこの厳島神社には、平安末から鎌倉にかけても上は法皇、上皇、貴族から下は最下層の漂泊の民に至るまで(河口や海に暮らす漂泊民はいっそ御嶽より参拝しやすい)多くの参拝者があった。

 下層民や漂泊民ではないが、それと変わらぬほとんど乞食坊主のような集団で全国各地の神社や寺を回り、人々に阿弥陀仏の名号を書いた札を渡していた一団に一遍宗徒がいる。その一遍さんが鎌倉中期この厳島神社にやってきている。鎌倉幕府は二次にわたるモンゴル侵略対策のため大わらわとなっていたが一遍さんはそんなことはどこ吹く風と、絵伝を見る限り全然気にしていない、ひたすら人々と阿弥陀さんの結縁のため札配りに精を出している。各地の人々が大勢集まる有名な神社や寺には立ち寄り、札配りをしたり踊念仏をやったりしている。

 この厳島神社は安芸国の一宮、一遍さんも詣でるが、このころまでには遊行の聖として有名になっていたためか、この厳島神社の神官からは丁寧に扱われている。絵伝を見ると皇族や貴族の参拝と同じ待遇である。

 下は内侍と呼ばれた巫女が海中の舞台で『妓女』の舞をするところを一遍さんは特等席から見ている。
そこに座った浅黒く尖った細面の顔はこの絵伝で見なれた一遍さんだ。この日ばかりは一遍はんは王侯貴族。

 「あぁ~~~、極楽極楽!まんで天女の舞みたいやな」

 と一遍はんは思ったか?

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