2019年6月3日月曜日

えびす神

20190110

 ひらがなで「えびす」神と表示したが漢字で書くと幾種類かある、蛭子、恵比寿、戎、夷、そしてそれぞれの漢字を冠した神社が各地に存在する。私がよく見るのは「蛭子神社」である。このえびす神社のルーツを調べると古事記の国生みに出てくるイザナギとイザナミの間の第一子ながら異形の形で生まれたため川に流され捨てられた「ヒルコ」に行きつく。なるほど蛭子と書けば普通は「えびす」と読むよりまず「ヒルコ」と読むから名称だけからでも十分納得できる。このヒルコ、異形の形で生まれたと書いたが、古事記の記述ではそれ以上詳しくはふれられてないが日本書紀そのほかの文献では体の芯となる骨も発育せず、ぐにゃぐにゃの体で、3年たっても歩けず這うだけというような子供であった。これは「ヒルコ」の名の通りまさに「蛭」(ヒル)のような体だったのであろう。

 そのヒルコは異形で生まれたため古事記ではすぐに葦船にのせて流され遺棄される。この記述ですぐある類似の神話が思い出される。旧約聖書神話のモーゼの話である。旧約の場合はエジプト王の新生児殺害命令を受けて泣く泣く川に流すわけだから古事記とは動機が違うが、生まれた時から暗い宿命を背負っているのはどちらも同じである。そしてその流された子は古事記ではえびす神となり、旧約では全イスラエルの民の指導者となり神の言葉の代理人として出エジプトの大奇跡をおこなう。流され遺棄されるが死ぬこともなく最後には一方は神、もう一方は神にこそならなかったが人間としては限りなく神に近い神の言葉の取持ちとなる。これもよく似ている。世界中にある「貴種流離譚」の民俗伝承の一種であるという人もいる。

 それにしても古事記のヒルコ坊や、流されその後どのような転変のあと神にまでなったのか、その話をぜひ知りたいが古事記にはその後のヒルコ坊やの話は一切ない。これに対しモーゼ坊やの方はエジプトの王女に拾われ王子として育てられ・・・云々と旧約の神話に面白い成長の話がある。でもヒルコ坊やの方はどうやって大きくなり最後には神となったかはわからない。

 えびす坊やがヒルのような異形の子供だったとして成長しおそらく年老いて左のような神、えびすさんになるのはかなり飛躍した想像力を要する。でも異形の乳児だったことを考えるとデカい頭、寸詰まりの小人症(いわゆるコビト)のような体型にその名残があるといえばなるほどという気もする。体はともかくこのえびす坊や将来は神として祀られるのだからその御利益通り本人の人生も成功したものでなければならない。えびす神は「商売繁盛、大漁豊作、家内安全」などの御利益がある。やはりえびすさんも人生においてこのような成功を収めたのであろう。同じ七福神の大黒様は米俵に乗っているがこのえびすさんは図を見てもわかるように釣り竿を持ち大きな鯛を抱えているから、どちらかというと豊漁の御利益が大きい気がするが、持っている鯛は魚の中でも高級魚、メデタイの語呂もあり、単なる豊漁だはなく福徳財貨を象徴するものとみてよいだろう。

 えびす坊やは川に流されるのであるから行きついたところは当然川岸か海岸である。川岸・海岸は漁業の場であるとともに古代中世、幹線道路が発達しなかった時代にあって河路や海路は交通・通商の主要な手段である。この河・海の結節点に流れ着いたとするとえびす坊やは漁業において富を得たことも考えられるが、むしろ川、海を利用した通商によって富を得たのではないだろうか。豊漁で富を得るより海や川を利用して遠いところと通商するほうがうんと利益が大きいのは言うまでもない。そう考えるとこのえびすさんが商売繁盛の神様でもあるのも頷ける。

 まあこのように成長していくにつれだんだんに成功していったことは想像できるが、そもそも新生児が流れ着いたらそのままで大きくなるはずがない。桃太郎の婆さん爺さんではないが誰かに拾ってもらってその子となり育てられなければならない。いくら乳児とはいえ異形である、その上どこからとも知らず流れ着いたものを拾って育てれるか?ということがある。おとぎ話だとそんな奇特な人もいるかもしれないが、そうであっても「流れ着いたモノ」を忌むべきものとして見るようなことはなかったか?それは重要な視点である。もし「流れ着いたモノ」が忌まわしいものとして見る風習があればおとぎ話であってもそんな物語も生まれはしまい。しかし「流れ着いたモノ」が祝福されるものであるという風習があったらどうだろう。その場合はすんなりとえびす坊やは受け入れられ(むしろ世にもまれな異形のものとして尊重されることだってありうる)喜んで育てられたであろう。さて実際に古代や中世において「流れ着いたモノ」を祝福とみなすような風習はあったのだろうか。

 海岸へ行くと台風の後なんかにモノがたくさん打ち上げられている光景を目にする。近年はゴミなどが多量に流れつくため「流れ着いたモノ」になんかはロクなものはないという認識が広がっているが、それでもそんなゴミをより分けてみていくとなかにはそれこそキラリと光る素晴らしいものもあったりする。「ビーチコーミング」というのをご存じだろうか、これは漂着物を観察し、その中で自分で価値があると思ったものを収集し、装飾やあるいは何か芸術作品にそれを使ったりすることである。海の波の作用で丸く磨かれた色とりどりのガラス片で装飾品をつくって展示してあるのを見たとこがあるが、素晴らしいものであった。今でこそ流れ着くものは多量のゴミが多いが古代や中世はそうではなかった。そもそも流れ着くものに古代人や中世人はゴミなどという概念で見なかった。当時は産廃のゴミなどはなかった。「流れ着いたモノ」は人に役立つ有用な何かであった。木の切れ端一つにしてもそれは建築の用途にもなるしそれができなくても燃料になった。いくら何でも腐った魚などはさすが使えないだろうと思うが、堆積しておけば畑の肥やしになるものである。時として思わぬ大宝物があった。といっても黄金やサンゴが入った宝物箱がプカプカ浮かんで漂着したわけではない。それは死んだばかりの、あるいは衰弱したクジラが海岸、入り江に打ち上げられることである。昔からクジラを捕獲すれば近在の数ヶ村が潤うといわれていたが、労せずしてクジラが打ち上げられればまさに思わぬ宝物が突然やった来て多くの人々に益をもたらしたのである。そうすると古代中世人にとって流れ着いたモノは決して忌むべきものではなくむしろ祝福するべきものであった。特にクジラ漂着のインパクトは強く、めったにないこととはいえ、近隣の地区全体が潤った出来事は何十年たっても語り継がれたであろう。このクジラに手も足も退化した蛭子を重ねて見てはどうだろうか。そう思ってみるとヒルコとオタマジャクシの化け物のようなクジラは大きさこそ違えよく似ている。これは私の突拍子もない妄想かと思いきや調べると実際そのように漂着したものどうし、クジラをヒルコとみたて同一視する話が各地に残っている。

 このように海の向こうから漂い着て、思いがけなくも富をもたらしてくれるのを具現化したものがヒルコ・えびすさんであるといえる。それは単なる「流れ着いたモノ」ばかりではなく広義に解釈して海から取れる海産物、海の向こうの珍しいモノ、さらには商船との取引の利益、なども含んでよいだろう。そこからえびすさん(神)が福徳の神様、商売繁盛の神様となるのは自然の流れである。もともとは川辺、海辺に縁のある神様のえびすさんだが、商売繁盛などで信仰を集めればそんな水辺に近いところばかりでなく内陸へ入って町家の中に勧請されて神社が存在してもおかしくない。

 ここ徳島にも先に述べたように漢字で幾種類も表記のある「えびす神社」が存在する。しかし以上述べたようなえびす神のルーツの話はもっとも流布されている説にすぎず、ずっと前に熊野の神様のところでも述べたようにえびす神に土着の神や仏教から伝来した神仏、また別の神との習合などもあり、えびす神ヒルコとは一概には言えないのである。その上、各地方のえびす神もその原初の形はえびす神とは違った名前を持っていて性格も違ったものであった可能性が大きい。海から来た神として古代に崇められていたものが蛭子神社に名を変えて一般化したことも考えられる。また漁村にあって豊漁を祈っていた土着の神が視覚的にわかりやすい釣り竿と鯛を持ったえびすさんに変わったこともあり得る。

 今日、徳島市内のある蛭子神社行ってきた。といっても「十日えびす」でにぎわう通町のえびすさんではない。住吉の住吉神社内にある蛭子神社である。

 こちらがその住吉社
 その境内に蛭子神社はある。
 その神社の由来の石碑を見ると住吉神社は渭の山(徳島城山)にあったものを江戸初期に蜂須賀家がこの地に移したとある。
 当時このあたりもまた元あった城山付近も海のごく近くであった。そのためどちらでも海神である住吉の神々を祀っていたのは納得できる。しかし住吉の神と蛭子神は違う神である。いつ頃から蛭子神が境内に祀られたのかとみると石碑には明治45年に大国主の神と事代主の神と合併したとある。この二神は出雲系の神様で親子(大国主が父で事代主が子)であるが、この息子の方の事代主の神が実は蛭子の神と同一視されるのである。これはちょっと納得できないほど不自然である。古事記には蛭子のルーツであるヒルコも事代主も出てくるが全く違う神である。日本の神々によくあるように習合したと考えれば不思議ではないが、よく似た神格を持つものなら自然だろうがちょっと二つの神は違いすぎるのである。強いていうなら事代主が古事記に登場したときに釣りをしていて釣り竿を持っていたからえびすさんの像と似ているというくらいである。まさかそんな類似だけで合体、同一視されるものかと疑問であるが、どうもそんなことでえびす神が事代主の神と同一視されたらしい。それもかなり近代、明治になってからのことである。この石碑に刻んであることから推察すると、明治45年に事代主と合併し祀られたとき蛭子神社が設けられたようである。

 今日の主役の『十日えびす祭』は市内通町の「えびす神社」でおこなわれているが正式名は『事代主神社』である。この名称のいわれははっきりとわかっている。元は市内夷山の円福寺あたりにあった蛭子神社を明治5年に名東県参事井上高格が現在の通町に遷座勧請し、その際に官命により事代主神社と社号を改称したのである。この明治初年は王政復古が行われたあと政府が神道を新しく秩序立てようとしてかなり強権を発揮した時期である。廃仏毀釈で寺や神社が大きな変革を受けた。その中で上からの(知事)強権によるえびす神の名称を事代主の神にするということが起こったのである。江戸時代まで八万の夷山にあった蛭子神社は古来からの崇められた神に加え様々な神格が習合したものであってその中から自然と蛭子と称する神社になったのであろうが、明治に入り政府の命令で移転され蛭子神社=事代主神社にされてしまったのである。かなり無理な改変であるといわなければならない。

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