2019年6月2日日曜日

山頭火の泊まったのは木賃宿か?

20181121

(上の図は広重の東海道五十三次木版画、水口の木賃宿、戸障子に木ちん宿と書いてある)

 今や木賃宿という言葉も死語だろう。いま日本で一番ぼろっちくて安い宿でも「木賃宿」などとは呼ばれていない。いま素泊まりでいっちょ安いのはいくらくらいで泊まれるのだろう?いろいろ情報を集めると500円~1000円くらいが最低ラインの宿泊費のようだ。わが県にはいくら安い宿でもそんな金額で泊まれるところはないが大阪や東京のいわゆる昔ドヤ街と呼ばれた地区にはそんな宿が残っているようだ。

 数年前、大阪天王寺動物園からちょっと南に行ったあたりを歩いていたが、そのあたりは昔のドヤ街、今は簡易宿泊所と称する宿がたくさん集まった町であった。そこには一泊素泊まり二畳個室、テレビ付き、千数百円、そして宿名を書いてある立て看板がたくさんあった。これなどは間仕切りが薄いベニヤ板であっても二畳ある一応は個室である。しかしさらに安い宿もあるようでこちらは500円前後くらい、このくらいになるとさすが個室ではなく大部屋にたくさん入っている二段ベットの一寝台のみが自分のスペースとなる。ここまでになるとはたして役所が宿屋としての営業許可を出しているのかと思われるが、銭湯とか簡易食堂とかで営業していてベットだけを提供しているのかもしれない。

 あ~、それから言い忘っせよった!上記のようなドヤ街はいっちゃあ悪いがガラが悪いところが多いがそんな場所でなく町の中心や繁華街にも千数百円で泊まれるところがあった。現に四年前、私は東京の浅草の雷門前でそこに泊まった。その場所とは「ネットカヘ」。ここも本来宿屋ではないが深夜割引8時間利用で千数百円払えばネットパソコン付きのブースを借りられる。仮眠したい人は椅子席でなくフラット席というのがあってそちらを選べば1.5畳くらいの和室のような部屋(?)であるから、何とか横になって寝られる(ブランケットは無料で貸してくれる)、私は主に東京鎌倉観光をするためそこに3泊もしたが、通年にわたって利用しているバアさんがいるようで深夜割引が始まると大荷物をもって毎夜のようにやってきていたから、ここをドヤ(毎日銭を払いここをねぐらとしている)としている人もいるんだなぁとわかった。

 以上のような宿が現代の最低限の宿、昔の「木賃宿」に相当するのではなかろうか。それでは今はなくなったが昔の木賃宿とはどんなものだったのだろうか。その不思議なネーミングから説明できる。宿を借りるのに「木賃」とはこはいかに?このような最低限の宿は当然大部屋入れ込み(ひどい場合は畳一畳に一人以上詰め込む)、そして寝具も無料で提供してくれるところはなく、布団一枚何銭という風に徴収される。もちろん宿が提供する食事などは一切ない。各自自炊である。そして自炊に必要な燃料、当時は薪だがこれも宿が有料で分けた。その薪代は「木賃」と呼ばれた。キチャない大部屋がド~~~ンとあるだけ、そこに泊まる人が入れ込んでくる、宿の主人は、宿代としては徴収しないこともあった(徴収してもごくわずか)、そして布団代とか薪代とかを宿代に代わるものとして宿泊者から取ったのである。そのためこのような宿は最低限の出費の(布団も借りない)「木賃」のみで泊まれるから木賃宿と呼ばれたのである。

 今は木賃宿はなくなったが戦前、いや私のチンマイころまではまだあった。特にここ四国はお遍路巡礼が昔から盛んである。今ももちろん盛んだが今は銭を持たず人々の御報謝(言葉はきれいが門口に立ち、一片の経や御詠歌を唱え米銭を恵んでもらうこと)のみで歩いて四国巡礼をする人はほとんどいない。しかし昔は銭も持たず、身に着けているものが唯一の財産で、もしかしたら帰る家さえ持たぬ遍路がたくさんいた。私のチンマイころはよく門口からチリンンチリント鈴の音とともに御詠歌が聞こえてきた。見ると白装束のお遍路さんである。家にバァチャンがいるときはハリ込んだときで五円硬貨一枚、ふつうはアルミニュムの一円を数枚渡していた(そうそう、ワイのチンマイときウチラへんではまだ一円札(紙幣でっせ)が流通して使われていた、これを大人になって都会出身の同級生に話したら、どうしても信用してくれず、タヌキに化かされたんとちゃうか、とバカにされた、ウチラ田舎ではこの時確かに使っていたぞ!)また銭でない時は米をひとつかみあげたりしていた。わたしもバアチャンから、ハイこれ渡してきぃ~、といって五円硬貨をお遍路さんに手渡したこともある。このようなお遍路さんを当時は「オヘンド」といささか軽蔑的なニュアンスをともなって呼んでいた。そんなオヘンドさんが泊る所がウチの家から南へ少し行った札所の寺の敷地に隣接してあったのを覚えている。崩れかけのぼろっちい小百姓風の家である。これが木賃宿であった。ここ四国ではオヘンド(遍路)さんの利用がいっち多いから『遍路宿』と呼ばれていたが内実は木賃宿と全く変わらぬものであった。

 この木賃宿(ヘンロ宿)に泊まったオヘンドさんを米銭をあげるだけでなく縁側でお茶のお接待をバアチャンがしたときがあった。私もバアチャンの横に座りオヘンドさんの話す(たぶん巡礼の苦労の)話を聞いていた。どんな話だったがほとんど忘れたが覚えているのは、そのヘンロ宿は20円払えば、布団、鍋釜、食器、また竈も貸してくれ、くべる薪も少々わけてくれるから、遍路でもらった白米を焚いて、そこで一泊したといっていた。まさに木賃で泊まれる木賃宿である。

 さてそれでは今日のブログの本題である山頭火はんが泊ったのは木賃宿だったかどうかを彼の日記から見てみよう。

 日が落ちてから、籏島(義経上陸地といわれる)のほとりの宿に泊まった、八十ちかい老爺一人で営業しているらしいが、この老爺なかなかの曲者らしい、嫌な人間である。調度も賄いも悪くて、私をして旅のわびしさせつなさを感じせしめるに十分であった(皮肉的に表現すれば草紅葉のよさの一端もない宿だった!)

 80歳近いジジイが一人でやっていると述べているので、主人が居、番頭も居、女中が世話をするような旅館でないことはわかる。当時の80歳といえば今の感覚で言えば90歳を越える高齢者である。いくら宿賃をもらったとてあれこれ世話ができるはずがない。もう部屋を提供するだけで、あとは皆はんが適当にやんなはれ!というのが精いっぱいじゃなかったかとおもわれるが、日記には「賄いもわるく」と書かれてある。賄いとはこのばあい夕飯である。夕飯が悪いと山頭火はんはブ~垂れているので対価を払っての夕食であろう。しかしジイさんにどんな賄いができよう。私が考えるにおそらく、この夜泊まった山頭火はんを入れた5人と主人のジイさんが部屋の真ん中ある囲炉裏につるしてある大鍋に味噌や白米、野菜なんどの切れっぱしをぶち込み、おミィさん(雑炊)にしてみんなでそれをシャモジですくい食べたんじゃなかろうか。それならジイサン、どうせ自分も食べるんだから雑炊の水を増やせば割り増しできるし、オヘンドさんが持ってきた白米もぶち込んでくれれば、ジイサンの食べ分もできる。山頭火はんがこのジジイなかなかの曲者、といってるが賄い料を取ったうえ、大いに雑炊を水増しし、おまけにオヘンドさんの持ってきた白米もぶち込ませ、自分の喰い料にしてしまうことにあきれての言葉じゃないだろうか。うん。きっとそうだ!そしてこのジジイ、水はタダとしても、さすが味噌や野菜、根菜、芋などは自分が用意せにゃならんので、味噌はケチってほんの少し、あとは塩ぶち込み、野菜や根菜、芋は周りの畑の廃棄場からタダで拾ってきたのをぶち込んだのかもしれん。こんな薄くて妙なにおいのするおミィさん(雑炊)がおいしいはずないし、腹もすぐすくだろう。山頭火はんが、ジジイは曲者で十分すぎるほど旅のわびしさせつなさを感じたと書いてるから、これくらいのことはあったのだろう。

 まあ、山頭火はんの泊まった宿、厳密な定義から言えば木賃宿とは言えないかもしれないが、この記述を見る限り、江戸~明治~大正~と受けつがれてきた伝統ある(?)木賃宿といって差し支えなかろう。

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