2019年6月2日日曜日

高原・桑島の白川神社

20181126

 知り合いから近くに小さな神社があっておばあさんの代以前から信仰しているが、その神さまのことについてもっと知りたいといってきたのでウェブ上で調べられることに限定してだがその「白川神社」について調べてみた。

 まず白川神社という名前であるが、これは私の最初の直感で、ある場所の地名「白川」を神社に冠したのではないかということを考えた。全国的に有名なのは京都の白川であろう。これは白川という小河川が東山の谷あいを流れていることからついたようだ。次に有名なのは岐阜県白川郷であろう。どちらかのゆかりの神社か、とまず最初に思ったがどちらも違っていた。しかし調べを進めると地名というのはやはり正しかった。そのある場所とは長野県王滝村を流れる白川という河川とそれにちなんだ地名からきている。


 その本座(白川神社の総元締社)はだから長野県大滝村にある。この場所は木曽御嶽山の麓にあり御嶽信仰の聖地(の入り口)に当たる。御嶽山の三十八座の一つとされる白川権現(白川大神)をお祀りしている。その御嶽山の麓にある本座の白川神社であるがもちろん行ったことはないがその神社の写真はネットで見られる。左の写真がそうである。山中の、みたところ荒廃も見られる小さな神社にちょっとびっくりした。本座というからもっと立派な神社を想像していたが意外であった。

 白川権現(神)さんも木曽御嶽山の山岳信仰の大きな範疇の中にある神々の一つである。だから御嶽信仰の神さんと同一視されうる。白川神社という名前だがより大きな範疇では「御嶽神社」といってもよいであろう。

 実際に高原・桑島の白川神社に行って神社を見てみればこの白川権現さんも御嶽信仰の神さんであるとわかるかもしれない。しかしズルをしてググルマップでまず見てみた。

 残念ながらググルマップは道路からの写真であり、境内にまでは視界は及ばない。仕方ないので上の写真を拡大してみるとこの白川神社の御紋章がはっきり見えた。

 ウェブで調べるとこの御紋章は「御嶽神社」の御紋章と同一であることがわかった。上が桑島の白川神社そして「御嶽神社」の御紋章は

 間違いないおんなじだ。

 まずウェブの調べから白川神社と御嶽信仰とは同じであることがわかった。そのうえで図書館にある徳島神社庁が出している『徳島県神社誌』の名西郡の項をみると、小さな神社じゃだからだろうか、それとも設立年代が新しいためだからだろうか、大字名高原地区にある神社の項目にはなく名西郡の神社の最後の項目にある神山町上分の神社の末尾に付録のように高原・桑島の白川神社があった。

 神社誌によると

 主祭神は、国常立尊(クニタチ)、大己貴命(オオナムチ)、少彦名命(スクナヒコナ)

 由緒 藍畑村大字高畑の小川増助が天保八年(1837)尾張国にて病臥中、御嶽山の神々の神助を得て本復、その御神徳をしのび、元治元年(1864)御嶽山を勧請し両部にて信仰、明治四十一年に神社となる。

 氏子 300戸

 宮司 欠員

 やはり木曽御嶽山の神々の信仰の神社だった。上の由緒で「両部」という言葉が入っているがこれは信仰の形態である神仏習合(いくつもの神や仏が習合し一体化して御嶽信仰をなす)と解釈している。神道は耶蘇教のように筋だった教義を持たない。神々の定義でさえあいまいで、いろいろな矛盾や時とともに神格も徐々に変化していくいい加減さを持っている。勧請した高畑の小川増助さんにしても一神教的なイメージで神を考えていたのではないだろう。この小川増助さんが勧請しているからこの人が桑島の白川神社の創建者と言えるであろう。ところでこのお神様の白川権現(御嶽信仰の神の一つだが)さんは当時この阿波で八幡や稲荷信仰のように一般的な(普及しているという意味で)お神様だったのだろうか。

 山岳信仰の中でもこの木曽御嶽山は奈良吉野の金峯山、出羽三山、などと並んで山岳信仰のメッカである。平安の昔からどちらも山岳修験の聖地であるが平安時代は京都では御嶽といえば奈良吉野の金峯山のことであった。源氏物語の夕顔の巻や枕草子に出てくる「御嶽精進」とはこの金峯山のことであった。吉野の金峯山の御嶽は修験道修業の山、聖地として奈良朝の役小角の時代から全国的に有名であったが、木曽御嶽山の山岳信仰は太古からあったとはいえローカルのもので全国的に信仰が広がったのは江戸時代の中期、尾張の行者・覚明と武蔵國の行者・普寛の二人が出て全国を修業して歩き御嶽信仰を広めたからでした。この行者二人が出て以降、御嶽信仰は独自の「講」(御嶽山信仰で結ばれたグループ)という地方組織をとり、宗派にかかわらず全国に多くの人を集めた講中ができたのである。

 とここまで述べれば高原・桑島にある白川神社は御嶽信仰の講中の中心ではないだろうかと推測されますがまさにその通り、この神社は外見こそ小さな神社だが実は木曽御嶽山へ向かう四国講中(グループ)の守護神の役を負っているのである。というのも覚明が御嶽山開山の託宣を受けた神は御嶽の神々の一つである白川大神でありそれを受けたのは四国巡礼中の足摺の三十八番札所金剛福寺であったと言われています。そのため以後、白川大神は四国の御嶽参拝の講中の守護神になったのでした。

 この白川大神は木曽御嶽山に鎮座まします神の一つでありますが、特に四国の講中の守護神ということで阿波の人の信仰は厚かったと思われます。木曽御嶽にはこの阿波の講中の篤い信仰を示すものがいくつも残っています。次のようなものです。

木曽御嶽山八合目付近、頂上が手近に見える。黒沢口第十四番霊場、金剛童子。八合目女人堂(金剛堂)から望む御嶽山(中央部右手側が摩利支天山、右端に継子岳)。「西国開基」と記された石の鳥居の奥に阿波ケ岳霊神場があり阿波福寿講の「西開霊神」「西覚霊神」の座像があります。

 さらに登った9合目付近、徳島県阿波地方の人々の霊神碑が多く祀られる阿波ヶ嶽。明心霊神と明寛霊神像、金剛童子像などが祀られています。白川神社 (徳島県名西郡石井町)との関連もあるようです。ここからハイマツ帯を登ります。 

 小川増助さんがこの御嶽講中に入っていたかどうかわかりませんが、彼が講中の人でなくても白川大神が特に阿波の人の守り神的な存在であると知っていただろうと思われます。そのため尾張(御嶽のある木曽の隣の国)で病臥したときこの神に祈ったと考えられ、霊験あらたかに本復したのち、御嶽信仰をより深めていったのではないでしょうか。そしておそらくは小川増助さんはお礼参りも兼ねて何度も木曽御嶽に参ったのでしょう。そしてついには木曽御嶽山中にあった白川大神の社を自分の本拠である阿波の高原桑島に作ったのでした。
 というわけでこの阿波の高原桑島の白川神社は阿波の御嶽信仰の中心であるばかりではなく四国の中でも御嶽信仰の守り神的な重要な神社です。


 もう今は御嶽山信仰の講中もなくなって久しく、その講中の御嶽信仰の宗教的熱中熱狂がいかなるものか知ることはできなくなっています。しかしこの白川神社のことを今日知る前に、私は実は以前、19世紀末の(1891年、明治24年)日本に来たアメリカ人の天文学者、パーシバル・ロウエル(火星の運河説をとなえたり、冥王星の存在を予言した天文学者で有名)の本を読んでいたのです。その時は白川神社のことや、ましてそれに関係した御嶽信仰のことなどは知らず読んでいたのです。その中にこの御嶽信仰の宗教的熱中熱狂が描かれていました。

 ロウエルはこの御嶽山に登り、そこで若者三人に会いますが、なんとこの三人はまさにわが故郷の阿波講中の人でした。浄衣を着た若者二人は御嶽山頂部の社の前の二つの椅子に向かい合って座ります。(もう一人は脇にいる)そして右の一人は祝詞を唱え、印を結び、気合を(イェ~とかオォ~とかいう大声)いれ四肢を緊張させ大ぶりな動作をとり、そのような一連の動きが繰り返されると、対して座っているいる左の若者、幣を握っているが、静かだった様子は次第にその一本の幣が震え始め次第に大きく振られ、終には発作的に引きつり始める、表情は超人的な発作状態の狂乱に近いとロウエルは書いていますが、ロウエルも指摘した通り、これは神がその人に下りた憑霊の状態です。(本人は忘我で意識も記憶もない場合が多い、四肢の痙攣など伴い、そのような精神状態にもかかわらず色々なことを口走り、それが神の言葉として周りの人は聞く)合理主義者のロウエルはその神秘的な宗教行為にいたく感銘を受け、日本の神道を調査研究するようになります。

 下はその本の挿絵に使われた阿波の御嶽講中の若者、御嶽山山頂付近、覚明霊神場、左の若者(幣を持っている)は憑依して神がかりになった状態)、そして神意をこの憑依した男の口を通じて述べる。
 御嶽信仰講中(全国から集まる)の列、山頂付近(ロウエルの本より、19世紀末)
 ロウエルはこの若者三人は阿波の講中であり、神聖性を持続させるため歩いて阿波から来たと述べている(東海道線開通から二年しかたっておらず、江戸時代と変わらぬ膝栗毛の旅がまだ主流だった)、もしかするとこの阿波の若者は今述べているこの高原・桑島の白川神社関係の講中ではなかろうか。

 ロウエルの本(題、オカルト・ジャパン)から19世紀末ごろまではこの高原・桑島の白川神社も含めた阿波の御嶽講中も盛んであり、その中から三人の若者を送り出し、そしてその御嶽信仰の内実は実に驚くべき宗教的熱中熱狂が(男に神が憑依する)あったことが知れたのである。 

 なんと!今は廃れたような小さな神社だが調べるとこのようなことがわかったのである。

 追書き この神社の創建者の小川増助さん、語呂が民謡会津磐梯山の、小原庄助さんに似ている。でもなんで尾張で病気になったのか、藍農家兼商人で東海道か中山道を旅していて尾張にいたのか、信仰の旅か、なんかの所用か、後に神社を勧請するくらいだから、かなりの身代を持っていたに違いないが、最後まで身代を維持できたのだろうか、小原庄助さんのように朝寝朝酒、旅、物見遊山が好きで身上つぶしたんじゃないだろうか、想像は尽きない、天保から幕末まで生きたようだから郷土史家なら知っているかもしれない。ちょっと人物像も知りたい。

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