2019年6月2日日曜日

厳島神社エピソード3・ウチの町の有名人と厳島神社

20181103

 ウチの町の有名人といっても現代ではない。平安末から鎌倉初期にかけてウチラのとこに住んでいた人である。その名を「平康頼」という。平安京の下級貴族であったが鹿ケ谷の事件に関与し、同じ平氏ではあるが謀反人として清盛の平氏政権によって鹿児島鬼界が島に流された。しかし、後に許され、さらには平氏滅亡後、鎌倉の頼朝の好意を受けてウチの町にあった麻植保という荘園を領し、そこに本拠地を築き、最期は阿波の有力者として生涯を終えた。

 この時、一緒に鬼界が島へ流罪になった人で「俊寛」という僧がいたが(同時に藤原成親の3人で)、今ではこの人のほうが全国的には有名である。『俊寛』として歌舞伎や演劇に取り上げられているからだろう。しかし、平家物語では俊寛よりウチラの平康頼のほうが有名で物語上彼のほうが重要である。

 平家物語では流された3人は喜界が島で絶望の日々を送るが、熊野権現を信仰する平康頼は成親を誘い一心に熊野権現に祈願する(もちろん帰れることを)、しかし俊寛は僧都でありながら神仏の信心に疎い人であった。そのため康頼ら二人とは違い祈願や行(ぎょう)も行わなかった。神仏の霊験譚が現実のこととして信じられた時代である。結果として3人のうち俊寛のみが赦免からはずれ鬼界が島にとり残されることとなる。

 平家物語絵巻より
 信心深い平康頼と成親は喜界が島をめぐり、熊野によく似た山や滝を熊野の御神域に見立て、都へ帰れるよう祈願や行を行った。
 下は祈願する二人。

 都やそこに残された肉親恋しさのあまりある日、千本の卒塔婆に梵字、名号、実名、和歌を書いて海に流す。
 下は卒塔婆を流す康頼、成親(右の二人も同人物)

 それがいかなる霊験によってか、卒塔婆は厳島神社に流れ着く。ある一人の僧によってそれは都にもたらされ、法皇そして清盛の目に留まり、二人は赦免されることになるのである。
 下は厳島神社流れ着いた卒塔婆を拾い上げる僧、社殿にいる僧も同じ人。

 都へもたらされた卒塔婆を見る清盛、重盛の勧めもあり、篤く信仰する厳島神社に流れ着いたのも御神意であると考えたのだろう、二人は都へ帰ることを許される。しかし俊寛は許されずそのまま島にとどめられる、結局、絶望のあまりそこで果ててしまう。

 都に帰った平康頼は平氏から源氏への政権交代後、頼朝によってわが町にあった「麻植保」の保司に任命され幸せな後半生を送る。厳島神社へ卒塔婆が流れ着いたことが二人の明暗を分けるきっかけとなったのである。

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