2012年2月24日金曜日

やまさん中世を歩く その5 修行・勤行・苦行


 前々回のブログで修業・学問をしなくても何かインスピレーションによって宗教的なステージの高い人がいると書いた。でも実のところ私は信用していない。そりゃあ、1000年に一人くらいはそんな宗教の天才が現れるかもしれないがそんな出現到来は稀有でまずないといってよいだろう。

 ところが近代、現代は新興宗教の教祖にそういう人が結構多く現れている。まあ。修業・学問をどれだけしたかは外見ではわかりずらいから、そうだというなら、信用する以外ない。

 「なるほど、信じるところから宗教は生まれるのだ!」

 学問というのはある意味客観的なもので、どれだけ達成したか評価できるものである。別にペーパーテストしなくても話をすればわかってくる。

 これに対して「修業」は漠然としていて、何が何やらわからないところがある。

 「わたしは山にこもり滝に打たれ、3年修業しました。」

 「ほ~ほ~、それは大したもんですなぁ~」

 「で、何を会得しました?」

 と聞いても、酢だの蒟蒻だのと言って煙にまけば、所詮、人の精神修養に類することなど、わかるはずもなく

 「へ~へ~、なるほどね」

 としか言いようがない。これを蒟蒻問答という。(なんちゃって!)

 修業は学問みたいにカリキュラムがあるわけでないから、

 「ワイはこうじゃ!」

 と実践すれば修業となるのである。とまあ、こんな宗教家は少数だろう、大多数はまじめにコツコツタイプの修業をしてるんだろう・・・と思いたいが・・・

 現代より中世の人のほうがずっと真摯な修業を行った。怪しげな独りよがりの修業は現代のほうが蔓延している。中世の人にとってはお手軽・安易な修業は、それは修業ではなかった。

 宗教的なキッチリした行為の日々の繰り返しである『勤行』、退屈だろうが無駄と思われようが、非合理だと思われようが、たゆまず繰り返す「勤行」は、退屈でうんざりで苦しいものであればあるほど修業としての勤行に価値がでてきた。
 『念仏を10万回唱えるだの、数珠を1万回繰る』だの今の人だとアホらしいとおもわれることが勤行であった。
 もちろん掃除、仏に手向ける香華燈明の調達、調整、深夜、早朝の念仏、瞑想、日々課されるものはすべて勤行であった。

 そして最も苦しい『苦行』、といってもやまさん、あまり思いつきません。前にインドに行った人の話では、あちらの「ひじり」さんは、釘のムシロに坐ったり、地面に穴を掘りさかさまになって体の半分を埋めたり、とSMプレイじゃないかと思うようなものもあるようですが、
 日本じゃあ、せいぜい「断食」とか「断崖絶壁を飛ぶように走る」とかお決まりの「滝行」ですかね。

 前置きが長くなりましたが今日は修業道場のようなところにご案内しましょう。

 文永10年とあるから一遍さんは35歳になっていた。一遍さんは故郷伊予の山の方にある岩屋というところに参籠する。堂があってそこにお籠りし、修業・勤行するわけである。
 いまこの地は四国霊場45番札所の岩屋寺となっている。当時の風景を今も彷彿とさせるものがある。
 まずは現代の岩屋寺から。よ~く見ておいてあとの絵巻と似てるか比べてください。
 
 崖に作られたお堂と仙人堂、2つのお堂を結ぶのは危うい梯子のみ。
 つづく2枚は上の堂と下の堂の拡大図。
 下の堂で話しているのが一遍とその弟子聖戒
 上の堂では上半身裸の男がいる何か勤行してるのだろうか。

 ここは修業の道場のようなところであろうか。一遍さんではないが摩天楼のような岩山に登り、行を行っている人がいる。

 まずは全体図から。
 3つの山頂にはそれぞれ赤いお社がある。真ん中の岩山の頂上ではどうやって登ったのか白い浄衣を着た人が額づき祈っている。
 右の高い岩山には下から長い梯子がかけられ、登っている人がいる。はしご上に2人いるがちょっと見えにくいので拡大したのが下の2図

 そして真ん中の岩山の頂上で祈る男。

 このような断崖、絶壁、頂上部での「苦行」は今も細々ながらその伝統が受け継がれ、その「行」をおこなう人がいます。
 わが徳島県では剣山に断崖絶壁の「行」場があります。
 我が故郷の吉野川市でも高越山にやはりちょっとした断崖の「行」場があり、修験道の格好をした行者さんが実践してますよ。

 このようにして錬行を終えた一遍さんですが、これからどこへいくのでしょうか。

つづく

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

そういえば、おっしゃる通り修行の成果って、定量化できないですね。「**年間修業しました」とか言っても、以前のままの人もいるでしょうし、修行もビジネスと同じで結果が出ないと意味がないと思います。。もし過程を楽しむのなら意味があるが、楽しんでいい修行なんて聞いたことがないな~。いやあるある、男女多数入り交えてのフリー何とかとか言って、カタルシスを行うやつ。一度やってみたいと思ったけど、勇気も機会もなかったのでやってないです。やって無いので批判もお勧めも出来ないです。でもゴールが同じなら楽しんでできればそれに越したことはないかなとは思いました。(^.^)
 山頂の修業は、エネルギースポットだからだと思います。合理的な方法論で、昔からあったんですね。苦行じゃなくて、気持ちいからやっているんだと思いますよ。むかし私も高越山や高知の唐人駄馬の唐人石の上、箱根の駒ヶ岳の頂上で瞑想した時は気持ちがよかったです。

 念仏(マントラ)は瞑想の一つの方法論です。想念の源に向かうための乗り物みたいなものですね。
 これらの修業は、パタンジャリのヨーガスートラの中にある「8階梯」につながると思います。

yamasan さんのコメント...

一遍さんの修業については実のとこよくわからないのですが、しんさまのほうがよくわかっているようですね。
 山岳の行場でしんさま、「行」を実践したんですね。私はその場所は見たことありますが自分は実践したことはありません。

 幼稚園ぐらいの時、修験道にはまっていた祖父に抱っこされて「火渡りの行」をやりました。(ってやったとは言わないか、)
 
 ところでパワースポットですが、この一遍さんとともに歩く旅で、最大のパワスポは「紀州熊野」です。
 どう思います?何か霊地、パワスポの条件があるんでしょうかね。