2012年2月23日木曜日

やまさん中世を歩く その4 善光寺参詣


 皆さんは信濃の(今の長野県)の善光寺へは行かれたことがおありでしょうか?この寺の格は高く、確か貫主は「尼宮さま」という門跡のような人がいて、私が初めてお参りした朝、「お数珠頂戴」とかいって数珠で頭を撫でてもらったことを思い出します。この尼宮様、宮様とお呼びしてるから皇族の縁につながる人でしょうか。それを見ても寺は京都の大寺院本山に劣らぬ格の高さが伺えますね。
 
 生涯に一度はお参りしたい寺として大勢の参詣人を集めております。私は何度かお参りしました。一番直近では、平成8年9月3日でした。なぜそんなに正確に覚えているかって?この時の旅は簡単な旅日記を残していましたのでそれを見たわけです。
 それによると車は(マイカーの一人旅だった)上越市(ここは昔越後の国府があったところ)の高田に駐車して、列車で長野に向かいました。往復運賃2700円と書かれてます。天気は快晴。簡単なメモ程度の旅日記だったため車窓の風景などの印象は書かれていませんが、北信濃の美しい山々が見えたことがおぼろげながら思い出されます。

 「そうそうSさまが今年スキーをした高原も見えてたと思いますよ。」

 この時私は45歳、約3か月に及ぶ北海道・北日本からの帰りの旅でした。
 長野駅に降り立ち参道を歩き始めました。

 その時(平成8年)から数えて725年も昔、年号でいうと文永のやはり8年。当時としては私と同じ中年に達していた(33歳)一遍さんも同じ参詣道を歩いていました。
 それでは一緒に歩いていきましょう。

 善光寺の手前に犀川という川が流れている。そこを越さなければ向こう岸にある参詣道へたどり着かないのだが、時は中世、大河に橋などかかってはいない。浅瀬を歩くか、船に乗るか、しかない。
 この川、山国である信濃を流れているため急流が多い。
 あるものはザンブと馬とともに浅瀬を渡っているが、向こうでは半裸になって服、荷物を振り分け天秤棒に担いだ男がどこを渡ろうかとウロウロしている。
  土木技術も未熟で護岸工事などはされていない。せいぜい木杭を打って浸食を防ぐくらいか。

 川を渡り切り参詣する武士。袴に着けているのは行縢といって鹿の皮で作ったもの今でも流鏑馬など同じ格好をしているのを見る。
 右下では牛が角つき合わせてまさに角逐している。
 ところで牛は善光寺と縁が深い。こんな言葉を聞いたことありませんか?

 「牛にひかれて善光寺参り」

 牛はインドでは聖なる動物。この善光寺の本尊は天竺(インド)伝来の仏様といわれている。何か関係あるのだろうか。この絵巻にめずらしい牛の角逐が出てきたのも何か意味があるのかもしれない。

 聖は旅先で喜捨を募り、毎日の糧を得る。宗教活動の見返りというのではないが、それが生活の基本である。喜捨が少ないとひもじい思いもする。
 これは民家で喜捨を乞うところである。一遍さんのようにも見えるがたった一人なので、他の聖かもしれない。この屋の主婦だろうか、相手をしている。多分、好意を受けられたのではないか。何せ、信心深い中世である。旅のひじりにむごいことはできまい。

 いよいよ善光寺につきました。ここで一遍さんが登場しています。一番左、本堂入り口の背の高い聖がそうです。
 
 上図の拡大図です。痩せた丈の高い一遍さんがいますね。中門に入るのはその一行でしょうか。傘を畳んでかついでいますね。傘の裾が折れていますね。これが褄折れ傘でしょうか。その後ろには笈(箱に脚の付いたリュック状のもの)を笠と一緒に背負った髭もじゃの男もいます。ワイルドな顔ですね。ホリも深そう、白人っぽいですね。こういう顔は現代では案外持てます。この時代はどうだったんでしょうか。
 東アジアの民族の中では日本人は非常に髭が濃いといわれています。二重瞼が多く、立体的な顔立ちも多いです。縄文人、アイヌ人の血を引く人が多いんでしょうかね。
 この絵巻、人種的に見てもなかなか面白い見方もできますよ。


 これは善光寺の郊外、芸能音楽史に関係する場面であります。
 西洋中世の放浪のギターリスト、吟遊詩人のカウンターパートともいえるのが下図に登場している「枇杷法師」
 おそらく視覚障害者、杖を持っている。横にいるのは弟子の子どもか?こちらは健常者で師匠の案内役かもしれない。
 この時代、悲劇的一大叙事詩といわれる「平家物語」はもう流布されていたから、この琵琶法師はそれを語り詠ったのかもしれない。
 娯楽やごく狭い地域で暮らす中世人にとってこのような遊芸人は歓迎されたと思われる。

 「中世の音楽、聴くことができればなぁ~」

 春に信濃善光寺を参詣したが秋ごろには故郷、伊予に帰り、窪寺というところで庵室を設け一人修業をする。
 人との交わりを断ち、ひたすら経典を読み、念仏を唱えたとある。
 そして2年・・・・・・・
 詞書きはこう記す

 『すみやかに万物を放下して、身命を法界につくし、衆生を利益(りやく)せんと思いたちたまふ』

 と、いよいよ全国放浪いや遊行の旅か?

 下図はその庵室での一人修業の一遍であるが、めずらしく誰か訪ねてきている。何か一遍さんはさかんに言っている。対手は合掌している。
 柳があり、谷川だろうか水が流れている。
 

 つづく

4 件のコメント:

てるゆき さんのコメント...

善光寺 行ったことないですが有名なお寺ですね。

長野から、ナガデンか何かに乗っていくのでしょうか?

機会があれば一度行って見たいと思います。

yamasan さんのコメント...

>>てるさんへ

 長野の街そのものが善光寺の門前町です。長野で降りれば歩いてゆけます。

 長野は観光にはいいですよ。高原、白樺林、アルプス、湖、城跡、温泉、四季のいつも観光にいいシーズンです。

 是非行ってください。きっと満足すると思います。

Unknown さんのコメント...

喜捨って托鉢と同じ意味なんですね。最近見ないですが、だいぶ前に道端でじっとしている四国遍路の人らしき人がいました。また、家に白装束の人が来たことがありました。何かあげたような気がするのですが、次の日に元気に自転車に乗って走っているのを見て変な気分になりました。私には出来ない行為ですね、今は特に・・・不景気ですし・・・関係ないですね。(^.^)
 長野は夏に、志賀高原とか近くの清里高原にしか行ったことがありませんが、善光寺があったとは・・・一回行っとかないといけないような気がしてきました。(^.^)

yamasan さんのコメント...

>>しんさま

 喜捨、なかなか意味深な言葉ですね。所有欲のあるものをあえて捨てる行為は、外見・建前を重視する人にとってできることかもしれませんが、それはフリであって、決して「喜んで」「捨てる」ことはしませんよね。
 つまりフリで捨てれても、喜んで、とは絶対いかないものですね。モノの豊富な現代でもそうです。ましてカツカツの生活をしていた中世人は出来そうもないことですが、喜捨の本質行為はむしろ現代人より中世人に見られます。
 それだけ、中世の人々は純粋に宗教的人間だったんでしょうね。

 ゴータマ・シッダルタ、つまり仏陀ですが最後には涅槃に入ります。よほど前世にいいことをしたと信じられていました。
 その前世の善行の一つが「捨身飼虎」といわれています。飢えた虎に自らの身を差し出した人(あるいは兎とも)です。
 これはもう究極の「喜捨」です。
 それについて私は価値判断をするつもりはありませんが、中世人はこの究極の喜捨を貴いものと見る人々だったのです。

 さて、仏教は他の宗教と違い極めて協調的で包括的です。その中でも、この一遍さんは神仏、ど
れであっても、敬虔に手を合わせています。

 仏教にはどんな異端の人であっても、悪人であっても必ず、「仏性」(悟りを開ける種子)があると説いています。

 もし、しんさまが中世人で、どこか地方の豪族としますね、そして、しんさまの方は仏教などに親和性は感じていません。
 しかし、あらゆるものに仏性を見出し、包括的な仏教は、仏教の方からしんさまを包み込もうとするかもしれませんよ。

 なぜ?それはしんさまの言葉の中に仏性があるとからです。御自身のブログで
 『・・・自我をどんどん無くして大我つまり創造主の領域を目指すのものとに分かれると思います。』
 と書いていらっしゃる。肯定はしていないものの、そう考えるのは仏性のある証拠・・
 と、たぶん、これはやまさんが言うのではなくやまさんの口を借りて中世の聖が言わせています。

 今日のブログのテーマの善光寺さんは、日本の寺には珍しく天竺(インド)生まれの仏像が本尊です。一遍さんは神、仏、小さな祠の神、そして浄、不浄を問わず、貴賤、誰であっても、接触して歩き続けました。
 もっとも聖(ひじり)らしい聖です。

 私は現代でも乞食のような格好で歩いている遍路を見ると、中世の捨て聖のように見てしまうところがあります。

 生きていた一遍さんに会ってみたいです。