2011年7月8日金曜日

いやなものを見た・聞いた

 できれば世の中軋轢もなく、平安に暮らしたいというのが、大方の人の人情というものであろう。

 平和な世、協調的な社会、お互いの心の平安。そんな状態が永久に続けばいいのにと願っているが、あの世とやらに理想の「極楽・天国」というのでも作らなければ、現実の人の世ではそんなことあり得ないのかもしれない。

 今日は人のこころの中の嫌な部分を見た。「怒り」である。それもかなり理不尽な怒りである。私は傍観者であったのでその怒りを発した者、向けられた者も客観的に見ることができたが、どう考えても怒りを発した者が理不尽であった。

 直接、自分に関係していることではないとはいえ、これを見聞きしてかなり嫌な気分になり、一日、正直言って落ち込むことになった。

 理不尽な怒りに対してどうこう言うのではない、「怒り」というものを持たざるを得ない人のこころに嫌気がさしてきたのである。

 始まりは些細なこと。ある公共交通機関に乗っていた。途中で乗り込もうとした婦人が自転車を持っていて自転車も一緒にのせてくれないかと云った。旅客用の乗り物だから、運転手が「ハイいいですよ。」という方が問題で、当然、断った。
 単に断ったのでは悪いと思ったのか、「他のお客さんの迷惑になるのでだめです。」といった。

 それで話は終わり出発したが、乗っていた70歳以上と思われるおじいさんが、
 「融通きかせてのせてあげれがいいのに。」 と始めはわりと普通にいっていた。
 運転手が
 「規則ですので。」
 すると、
 わしも昔、運転手していたときはのせてあげた。とか、情をみせて大目に見てやればよかったのにとか、言い始めて、だんだん感情がエスカレート、
 最後は罵詈雑言、名前を言えの、家はどこだ、お決まりの文句、やめさせてやるの、あきれるほどの怒りを見せました。

 運転席にまで詰め寄りましたもの。
 ほとんど一人芝居の状態で、例えれば
 「怒り」がどのような段階を踏んで激発するかの心理学の教科書のような事例でした。
 ご老体ではありましたが、情緒的か神経性のご病気のような気もしました。

 運転手も理不尽な怒りの矛先になって、体が震えてましたが、より理性的であったのか、客商売なので辛抱したのか、
 「なんで、そこまで突っかかるのか?」と一回反論しただけで、黙ってました。

 老人性の病気かもしれないと、無視してもよいのかもしれないが、「怒り」そのものは誰のこころにもきざす。この老人は極端にしても、きざした「怒り」は往々にして独りで大きくなり、外部へ暴発する傾向を持つ。

 「正義のための怒り」といえば理不尽な怒りではなく、許される正当な「怒り」のような気もするが、「怒り」はむけられた人はもちろんのこと、「怒り」に身をまかせた人の「心の荒廃」をもたらす。「怒り」を抱けばどのような人でも「無慈悲」「残酷」の方に大きく針は振れ、制動メカニズムに負担がかかる。精神衛生にも悪い。
 第一、怒る人は、だいたい正義は自分にあると思っている。この点、戦争を仕掛けるものは自分こそ「正義」であると信じているのとよく似ている。
 「正義」を実現するため「戦争」が許される。という論理と「正義」のための「怒り」なら許される。という論理は相似形ではあるまいか。

 「正義」を求め実現するにしても「怒り」を抱かなければならぬものなのだろうか?

 このような質問がむなしくなるほど、「怒り」は人のこころの中に小さな泡のように常に湧いてくる。全く断てた人はいるのだろうか?

 「大きな愛」を持った人や「人を思いやる」気持ちを持った人は「怒り」を抑え、消し去ることもできるのだろう。

 しかし世の中にはなんと「凡夫」の多いことよ!かくいう私もその一人、ふつふつと湧いてくる「怒り」の小さな泡、大体は抑えれるが、抑えられたとしても外部へ漏れ出さないだけで、心はその汚い泡でいっぱいになり、心は暗い迷路にはいり、くるしむ。
 そして、もしかすると何かの拍子に、この爺さんのように「怒り」の泡がかってに巨大になり外へ向かって噴出するかもしれぬ可能性は、常にある。

 「ああ、怒りの湧いて出てくる心の奥のベント(湧き出る穴)そのものを無くせぬものか」

 これは倫理・宗教の一大テーマであり私がやすやすとこうだといえるものではないだろう。

 人生の終着駅に近づいても、悟るには程遠く、凡夫は人や自分に「怒り」を見なければならない。むしろ終着駅に近い人が、このような「暴走老人」として怒りに身をまかせる。
 嫌なものを見た・聞いたといったが、それはまったく自分のこころの中にあるものである。決してひとごとではない。

 若い頃なら嫌なことはすぐ忘れられたが、今はこれ以後の一日を重く、暗いものにする。バスを降りて歩いていると満開のきれいな花をつけた木が目に入った。

 「木槿の花だ。」 と、ふと芭蕉の句を思い出した。

 道の辺(べ)の木槿(むくげ)は馬に喰われけり  (松尾芭蕉・野ざらし紀行より)

嫌なことも、人に根ざす「怒り」も芭蕉さんが見た木槿の花のようにパクリと食べられればいいのに。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

 師匠曰く「怒りは弱さからきます」だったと思います。
このたびの出来事は、傍観者も当事者も含め4人とも強くなればいいということでしょうか。ではどのように強くなるかですが、知的に、感情的に、肉体的にといろいろあろうかと思います。どれをといわれると、全てでしょうね。そのためには、まず意識容量を広げることから始められたほうがいいように思います。つまり、器が小さいと物は入らないからです。意識を無限の場に広げる、これで自然と知識もスムーズにどんどん入ってくるし、感情的には大きな許容量を得ることができるし、肉体的に鍛えた人はそう簡単には怒らないような気がするからです。
 解決策その2
 乗り込もうとした夫人;自転車は私の荷物ですと言い張って持ち込めばよかった。
 運転手:自転車は、幾分小さく見えたので携帯用と認識し、容認する。
 怒った人:運営規則を変える方向にエネルギーを使う。
 やまさん:ただで、白熱した演技を見せていただいたと感謝する。「お蔭で木槿の花がきれいに見えた」と、また感謝して帰る。
 すみません、他人事なので適当に解釈しました。

 

yamasan さんのコメント...

 しんさまならどのようにされるか、興味がありました。なにか世事にかかわりなく生きてる気がしてました。

 このようにみんな意識を変えて和気あいあいと過ごせればいいんでしょうが、現実には「怒り」の種はつきないようです。

 今朝のニュースを見ても、出てるコメンテータ、意見を求められた一般国民、誰もかれもみんな「けんか腰」や「怒りのふり」、せめてTVだけでも和気あいあいとならぬものか。

 あ、そうじゃ、TVニュースは見んことにしとんじゃ!