2011年3月13日日曜日

義援金 義捐金 喜捨

 今日、徳島駅で降りて駅前の歩道に出ると、同じ色のジャンバーを着た人が7~8人、箱とプラカードを下げ、道行く人にちょっと詰め寄るようなかっこうで、何か叫んでいる。一瞬わからなかったが、すぐ気が付いた。
 
 「ああ、東日本大震災の被災者に対する寄付金集めだ。」

 「まだどれくらいの規模の被害に拡大するかわからないのに、ずいぶん早くから寄付あつめするんだな。」

 と心では思ったが、遠く離れていて何もできない我々の善意が形になり、目に見える助力に結びつくにはこのような寄付がもっともよい方法であることは言うまでもない。
 歩み寄るような受託者(寄付を集める人)を避け気味にそのまま通りすぎる人もいれば、中には自分から進んでいって箱に金を入れる人もいる。みんなそれぞれである。

 「おいおい、お前はどうなんだ?」

 私は、寄付をしなかった。別に寄付に対し、主義として反対ではないし、それどころか今回の震災に自分なりに助けられるためには金銭を出すのが一番いいと考えている。
 今日、この場でしなかったのは深い意味はない。さっきもちょっと言ったが、すこし早いような気がしただけである。もちろんいろいろな手当は早いほどいいだろうから、早く金を集めることに抗うつもりはない。しかし、またそれは善意で自発的な行為だから、もうすこし見極めてから出そうとする人がいてもいいだろう。
 世紀の大天災からまだ丸二日もたっていない。後から後から必要な物資・金はこのさきずっといるだろう。先に出す人、後から出す人、次々あらわれれば長く援助が続けられる。

 作家の曽野綾子さんは日本財団の会長として困っている国の人々に援助金を出す立場の人として次のような主旨のことを言っている。

 「本当に困っている人々の元に必ず援助が行くように方法を考えて援助はすべきである。援助は尊い行為である。しかし金を出して、ああ、いいことした。で終わっては無責任、自己満足に陥ってはならない。貧しい国の援助金は、国の役人、もしかすると受託団体の私欲のため途中で抜かれることが往々にしてある。直接手渡すことが確実なような方策をしなければならない。大変だが、援助する人はそれだけの責任も負ってほしい。」

 いま、そしてこれから活動しようという日本の団体にこの言葉は当たってはいないだろう。しかし、最後の言葉の、「援助する人はそれだけの責任も負ってほしい」というのは傾聴に値すると思うのだがどうだろう。
 責任といってもこの場合、そんな難しいことではない。ちょっとだけ考えればいいような気がする。一番必要なものは何か、それはいつか、確実に送り届けられるか、それは物資か金か、集まりすぎて無駄にならぬか、
 これからもしかすると何か月にもわたって援助は必要となる。じっくり考えて見極めてから援助をする人がいてもいいだろう。

 アグレッシブに歩道で活動する義援金集めのグループとは裏腹に歩道の隅のビルの壁の前にひっそりと立つ僧形の人がいた。手には金を入れる托鉢を持っている。
 このような托鉢に小銭をいれるのを

 「喜捨」

 といった。「喜捨」には先ほど言った「義援金」のように七面倒な「責任」などくっついてはいない。文字通り、自ら喜んで捨てる、のだから。
 捨てるといっても仏教の思想にもとずく深遠な意味を持った行為。軽薄な行為と誤解しないでください。仏教には「捨身」という、自分の身、すなわち命を捨てるほどの尊い行為があるのです。「捨つ」というのは仏教的には立派な行為です。

 なぜかこっちの方には今、金を「喜捨」したくなりました。

 「で、どうした?」

 「喜捨は、道行くひとびとのこころごころでっさかい、いわぬが仏、いや、花。」

 本来は「義捐金」という文字ですが、最近は「義援金」と書きます。なぜかなあ、と思っていたらチィターに若いおなごしが
 
 「義捐金という字は、捐に捨てるという意味があってどうかと思います、私は、助けるという意味のある、援、の方がふさわしい気がして、いい言葉ができたと思っています。」

 と書いてました。なるほど!
 まあ、捨てる、という意味は仏教的な意味があり、ごみを捨てるなどという意味とはちょっと違うんですけど、今風の意味では確かに、ポーンと捨てるだわな。

 でもそれなら、よけいに「義援金」にはちょっとした責任もついていると考えるべきでは。

1 件のコメント:

てるゆき さんのコメント...

義援金を出してあげたいが、まだ、仕事が決まってないので?

ほんとうに善意のお金が、困っている人に届きますように!