2011年5月30日月曜日

執着のこころが消えるとき

 ブログで知ったが私のPCのお師匠さんの車がへこみ、10万かかるかもしれないとのことで文字通りお師匠さんもへこんでいました。

 物を所有することは執着心も生まれることで誰しも同じ。いつまでもまっさらぴんぴんであって欲しい。壊れずに永続してほしい。当然のことです。
 しかし、そううまくいかないのも世の摂理、傷はつくわ、ぶっ壊れるわ、時として嫌嫌自分の所有から離れることもあるかもしれません。

 しかし、まあ、執着の心は残るにしても、仕方ないこととして、受け入れ、やがてどこかへ忘れ去られる、あるいはあきらめるのが大体の人々。

 お師匠さんも合理的で常識人だからやがて平常心になるのは確実。

 振り返って、私をみると、どうも執着心が異常にあるような気がします。執着心は誰しもあることながら、非合理的に、非常識にそれに固執すればこれは「執着」から「偏執」になる。そしてそれが増々嵩じれば「反・非社会的行動」になり、犯罪にかぶさってきます。
 私の場合そこまでは行きませんが、「偏執」に近い執着を見せるのではないかと思ってしまいます。

 私の今一番の所有財産で執着のこころが強いのはPCです。買って一年にもなりません。
 ところがこいつ、思うようにならないのです。もう複雑すぎて、心配ばかり、細かいこだわりが捨てられません。
 結局、こいつを所有した時からついてくる執着が離れません。のぞくと心配のカタログ、
 「なんで、グーグルアースのアイコンが勝手に消えたんだろ」
 「なんでかってに100メガものプログラムがつい最近インストールされたんじゃろ」
 「これはきっと悪意あるビールス感染じゃ」
 「これは製造段階から、根性悪のソフトが仕込まれたんじゃ」
 「はずれの粗悪品のPCを売りつけられたんじゃ」
 などなど

 所有は本来財産が増えることで幸福度が上がっても不思議でないが、所有することで執着心がついてくるといっそ苦しむことになりかねません。

 と、このような方向に所有をマイナスにとらえることが、私の執着心の異常さかもしれません。

 モノを放下(ほかす)することで、所有から離れれば執着も当然消えますが、こんなことできます?
 できませんわな。

 でも、ブッダ、やキリストなど偉大な宗教者は、モノに執着してはならないと教えてるみたいですね。しかし、後の教団なんか物凄い財産を所有してますから、これってどうなんでしょう。
 宗祖は別としても、教団は、モノへの執着心を捨てなければならないと思いつつ、現実できないヒトといっしょですね。

 しかし、人はいつか死にます。格言に

 「あの世へモノは(金など)持っていけない」

 というのがあります。
 だから歳がいき、体も衰え、だんだん死に近くなってくると所有を離し、執着心もだんだんなくするのが理想かもしれません。
 執着心がゼロになったときが死であるとともに「涅槃」であり安らかさの極地というのはちょっと魅力的な死にかたですね。

 でも所有を放下(ほかし)たとたん、誰かの所有に帰し、誰かさんの執着がまとわりつくのは

 『許せん!』

 という執着はもっとも固執度が高いようで、執着の心が消えることはなさそうです。

4 件のコメント:

しんさま さんのコメント...

誰かが言ってましたが、「人生の半ばまでは、人はいろんなことをため込みます、つまり自我の形成に励みますが、半ばを過ぎると溜めたものをどんどん吐き出して自我の消滅に励みます。」と言ってました。確かに自分の人生もそうっだったような・・・。これは精神論での話ですが、肉体でも機能的には同じようなことがおこっているように思いました。どちらも最後は自我の消滅なので、美の極限と同じ結末になるのだなと思いました。よっって「人生は美である」かな。

匿名 さんのコメント...
このコメントはブログの管理者によって削除されました。
yamasan さんのコメント...

 「自我の消滅」よく考えると恐ろしい言葉ですね。無に帰し、永遠につづく、
 夜、そのことを考えると、あまりの恐怖に胸が苦しくなります。すべての感覚を失い無限の闇の中にいるより、もっとおおきな恐ろしさ。

 人が何かに救いを求めるのはむべなるかなです。
 ブッダは執着(しゅうじゃく)を捨てよ、無欲になれと教えます。神の国を説き、霊魂の不滅を教える宗教もあります。

 しかし、「死」とは真実いかなるものか。死の瞬間は?死後は?謎だらけです。ほんとのことは一つなんでしょうか。
 わかりません。

 ですけど生きている間のことはわかります。それなら生が尽きる極限の死の間際まで美しい夢を見、希望の光を見たいですね。

Unknown さんのコメント...

やまさん「自我の消滅」は恐ろしくないと思いますよ。
消滅という言葉を使ったのがいけなかったような気がします。正しくは、「自我が拡大し、大我に溶け込み一体となった状態」ですかね。小さな自我が、大いなる全体性の中に浸り至福に満ち溢れている状態です。よって恐ろしさのかけらもありません。この状態が悟り・涅槃と呼ばれている状態と思います。肉体をもちながら、このような意識状態を維持できれば、この世は楽園以外の何物でもないということになるみたいです。ほんとかな?