2011年5月11日水曜日

ドッペルゲンガー

 ドッペルゲンガー(独語:Doppelgänger,自己像幻視)というのがある。不思議な現象で、日本ではオカルト、霊的超自然現象として捉えられることが多いようである。
 実はこの言葉最近まで知らなかった。ある本を読んだとき(オカルト本ではなく、真面目な歴史本だが)、このドッペルゲンガーが何度も出てきた。聞きなれない言葉である。辞書で調べて直訳的意味はわかったが今一つピンとこなかった。、「生きている人間の霊的な生き写し」と言われても具体性がないからわからない。

 こうゆう時インターネットは便利である。具体例を次々検索してゆける。そのなかで一番
 
 「ははあ、なるほど」

 と納得させたのは、江戸時代のある話しであった。ドッペルゲンガーの具体例である。
 江戸時代の日本では、影の病い影のわずらいと言われ、離魂病とされた。
 
 ある人が外から帰って来て、居間の戸を開くと、机に向かっている人がいる。自分の留守の間に誰だろうと見ると、髪の結いよう、衣類、帯に至るまで、自分が常に着ているものと同じである。
 自分の後姿を見た事はないが、寸分違いないと思われたので、顔を見ようと歩いていくと、向こうを向いたまま障子の細く開いた所から縁先に出てしまい、後を追ったが、もう姿は見えなかった。
 家族にその話をすると、母親はものもいわず、顔をひそめていたが、それからその人は病気となり、その年の内に死んでしまった。
 実はその人の祖父・父共に、この影の病により亡くなっており、余りに忌しき事ゆえに、母や家来はその事を言えずにいた。結果として、3代ともこの影の病にて病没してしまった。

 つまりこの世に自分と全くそっくりな人間が同時にいることである。よく似ている人、という意味でなく、自分のいわばコピーで身も心も同じそっくりさんである。
 体や顔が寸分違わぬというのも不気味だが、心もそっくりというのが怖い。「離魂病」と言われる所以である。

 今日、私はすんでのことにドッペルゲンガーを体験しかけた。

 「江戸のオランダ人」という歴史新書を読んでいて、
 文政9年(1826年)というから、鎖国時代の日本ではあるけれども、オランダ人のみに許された江戸参府の帰路にシーボルトが大坂道頓堀の角座で「妹背山女庭訓」の芝居を観劇していると、知った。

 「へぇ~、よくこの時代にオランダ人が歌舞伎などみれたものだなあ~」

 ちょっと感動し、もう少し具体的なことを知りたくなり、ウェブで検索を始めた。
 「シーボルト」、「文政」、「道頓堀角座」などのキーワードを入れ探し始めると・・・・・・・
 
 いくつかヒットした。ずっと見ていくと、
 文政十年、道頓堀角座でシーボルトが「妹背山女庭訓」を見て・・・・・
 という文の一部の紹介があり、ブログ・桃山日記、とある。

 「ほ~、世の中には同じ名前のブログがあるんじゃな」
 
 「まさか、自分のブログじゃないだろうな」
 
 しかし、本文の抜粋記事を読むが、自分が書いた覚えは全くないので、別人だ。クリックしてブログ記事本体に飛んで、びっくり!
 なんと!私のブログが出てきた。1月31日の記事が最初にきて、あと1月の記事がずらずら並んでいる。この時点でも全く身に覚えがない。
 なんか不気味になってきて、異様な感覚が襲ってくる。

 「描いた覚えのない記事の抜粋をクリックしたら、自分のブログに飛んだ。どうゆうことだ?誰かが自分とそっくりなブログを作っていたのか?誰が????????」

 まさにドッペルゲンガー、もう一人の自分がいて、ウェブ上で活躍してる。
 ゾゾゾゾゾ~。こわぁ~ぃ。

 書いた覚えのない記事を求めて31日から記事を繰っていきました。そしたら27日に書いた覚えのない、「文政十年、道頓堀角座でシーボルトが「妹背山女庭訓」を見て・・・・・」が出てきました。

 恐る恐る読み始めました。すると、あれほど、全く書いた覚えがないと思っていたのに、読むにつれ、記憶がよみがえってきました。

 「そういえば、こんな記事かいとったわ」

 で、ドッペルゲンガー現象も私の思い違いで幕となりました。
 
 しかし、もし、記憶がよみがえらなかったら、わたしは、自分と同じ考え、文体を持つもう一人の自分が、そっくりな桃山日記を書いている。と思い。そしてたとえ自分が書いたと記憶に残っている記事でも、一部、巧妙に、まるで遅効性の毒を仕込むように記事の中をちょっとだけ変えてると、思い込んだでしょう。

 この状態でもかなりわたしの物忘れ、ボケがひどいですが、もう少しボケが進めば、自分で書いているにもかかわらず、やまさん、きっと

 「これは、ぜったい、自分じゃない。もう一人の自分モドキがいてやったに違いない。」

 と言い張るでしょう。
 ボケてきたら、自分も周りの人も、二つの自分がいるように感じるかもしれないと、今度は、ボケの思わぬ恐ろしい作用を発見し、おぞけをふるった次第です。
 なるほど、ボケるということは、ある意味、魂が自分を離れ、知らぬことをするという「離魂病」と見れないこともない。

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