2012年10月8日月曜日

長崎は異国の窓


 長崎(ここではあえて長崎県と云おう)は江戸時代における異国の窓であったというのは小学6年生でも知っている。ではその異国とはどこの国?と質問すれば、複数の国を答えられる人はちょっと少なくなる。オランダは誰でも答えられる。じゃあ他には?もう一つは清国(当時の中国)である。

 オランダ人は長崎の出島に閉じ込められての生活だった。清国人も人工の島ではないが町の一角に塀をめぐらせ出入りを監視されていた。けれどオランダ人よりは自由がきいたと思われます。

 これが長崎の江戸時代の絵地図の中の清国人(唐人と呼んでいた)の居住地です。
 このあたりは今も中華街の一部となっています。この唐人の居留町はだから中国式のお寺や祠堂(日本の小社、お堂)が建てられていました。
 その中の中国祠堂の動画です。

 この近くにはこんな表示石も残っています。

 じゃあ、長崎の異国の窓はこの二国だけか、とお思いでしょうね。この二国、交渉といっても公的な外交した国ではないのです。交易の付き合いだったのです。オランダの場合、商館長(オランダカピタン)が大名行列に準じた「江戸参府」などを行い、また毎年オランダ船が入るたびにオランダ風説書(世界の諸国の動静が書かれてある。いわば国際ニュース)の提出が義務づけられていたので多少政治的な付き合いでもありましたが、正式な国交使節団ではありません。

 江戸時代、正式な国同士の付き合い(外交)があったのは唯一、「李氏朝鮮国」(今の韓国)のみです。江戸まで国書の交換に朝鮮の使節が「通信使」としてソウルから向かいました。
 この受け入れの窓口も長崎(何度も言うようだが長崎県です)だったのです。

 さて長崎(県)のどこでしょう。それは対馬だったのです。

 「ええぇ~~!対馬って長崎県か!」

 と思う方もいるでしょうね。方向位置距離から言っても福岡が近いと思いますが長崎県なのです。ここが朝鮮との外交の窓口だったのです。(長崎は幕府の奉行が管理しましたが対馬は対馬藩を通しての外交です)

 「だから長崎(県)は江戸時代、3国への異国の窓だったのです。」
 
 対馬は離島だがけっこう大きな島、旧国区分では対馬島だけで一国『対馬国』である。いいところらしいけど何せ遠い。日本の観光客は敬遠して行きたがらない。いま増えているのは韓国の観光客とか、

 「みなさん!ここがかってに韓国領土だと宣言されないように我らもしっかりここに観光に行きましょう』

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

  韓国からの観光客が増えている理由が解らないので不気味ですが、日本からの観光客が少ないのはよく解ります。少し前に、韓国人による土地買占めが問題になっていたような気がしますがその後どうなったのでしょうね。それからGoogleマップ見ましたら韓国と北朝鮮の日本語表記がすべて無くなっていました!これはどう考えてもケンカを売ってきているとしか思えませんね。ヽ(^。^)ノ

yamasan さんのコメント...

さっきニュースを見ていて昨日、対馬の寺で8世紀の新羅で作られた仏像が盗まれたといってました。
 これってもしかして・・・やたらと日本が文化を盗んだと喚きまくっているあの国の人たちが・・・という気がしないわけでもありませんが、
 文化財、知的財産(著作権、商標登録)を勝手に盗みまくる国が近隣に多いのは嫌ですね。