2012年4月19日木曜日

メリケン流行歌小史学習ノート 5頁

1、ジャズの発祥  
1、ニューオーリンズ 
 この南部の都市はアメリカの北部諸州と違い、歴史的にスペインそしてフランスの植民地として発展してきたところである。ラテン系の文化が入り混じり、おおらかな気分に満ち溢れていた。
 この町にはスペイン系やフランス系白人と黒人の混血、いわゆる「クレオール」という人がいた。彼らは北部のイギリス系の奴隷と違って、社会的地位もほぼ白人と同等、黒人の特権階級であった。白人と同じように教育を受け、ヨーロッパ音楽を見に着け、楽譜も読めるものが多かった。

 しかし、1863年の奴隷制度廃止の結果、クレオールはそれまでの優位な立場から一転して同じ「黒人」として扱われ、没落していった。そのため、クレオールは黒人コミュニティに参加せざるを得なくなった。一緒にブラスバンドで演奏したりすることになる。

 ヨーロッパ音楽を身に着けたクレオールが譜面通り演奏するのに対し、黒人ブラスバンドは耳から聞いたメロディで演奏し、時には即興的なフレーズに変化したりする。
 白人やクレオールの演奏と黒人たちのアフリカのリズム感を持った感性や即興性を持ったパワフルな演奏との出会いが、ジャズを徐々に形成することになるのである。

2、ジャズの誕生 
 黒人たちはクレオールから学んだヨーロッパ系のマーチ、ポルカ、ワルツなどを自分たちのフィーリングで演奏し、南部のブルースやスピリチュアル(本ブログ1頁参照)、ラグタイムなどの要素を取り入れながら、即興演奏やシンコペーションを伴ったジャズへと徐々に進行していった。
 この初期のジャズをニューオーリンズ・ジャズまたはディキシーランド・ジャズと呼ぶ。
 いくつかの曲を貼っておきます。
「Tiger Rag」
「Hindustan」

3、ラグタイムの誕生 
 ラグタイムはピアノで演奏される軽快なシンコペーションを伴った音楽で、1897年から1918年にかけてアメリカで最ももてはやされた。
 黒人たちはスペイン、フランス系白人に支配されていた間、ヨーロッパ音楽、モーツァルト、ショパン、シューベルト、シュトラウスなどポピュラーな音楽を聴くことができた。
 聞き覚えたこれらのメロディーや和声進行の組み合わせ、リズムはアフリカのポリリズムに見られるシンコペーションを用いて、黒人たちは自分たちの音楽を作り始めた。そのリズムはアフリカ、西インド諸島などのワークソングや教会の黒人霊歌などがミックスされたもので、独特の活気ある「ラグタイム」が誕生する。

 そのラグタイムブレークのきっかけとなった曲を紹介します。1897年楽譜が出版され、当時発明された『自動演奏ピアノ』の演奏とともに大ヒットした。なおこの『The Entertainer』は昔、私がピアノを練習して弾いたことがあります。懐かしく聴くことができました。

「Maple Leaf Rag」
「The Entertainer」

 このラグタイムはヨーロッパの音楽にも影響を与えた。ドビュッシーの「子供の領分」の中にその影響がみられる曲がある。

「Golliwog`s Cakewalk」

2、シカゴ・ジャズとローリング・トゥエンティーズ 

 20世紀に入ると北部のシカゴでは工業の発展に伴い、多くの労働者を必要とした。その結果、良い賃金とよりよい生活を求めて南部からの黒人の大移住が起った。ジャズメンも当然含まれていた。

1、ナイト・ライフでのジャズ 
 急激に黒人人口が増加したシカゴでは、ナイトクラブのエンターテイメントとして、多くのクラブやボールルームが作られ、シカゴ独自のミュージック・シーンが出来上がって行った。
 かっては式や祭り、パレードなどが主な演奏場面だったニューオーリンズ・ジャズも、シカゴでは完全なエンターテインメントとしての音楽に変容していった。
 その結果、ジャズの本流はシカゴに移り、シカゴがジャズの第二の故郷になることになった。折から、禁酒法の時代で、ギャングの経営する酒場もジャズ隆盛の一助となった。

「Black Bottom Stomp」
「West-End Blues」

 ルイ・アームストロングも活躍する。

「Static Strut」

2、ハーレム・ルネッサンス 
 禁酒法が施行されて間もない20年代初頭、ニューヨークのハーレムから全米に黒人文化が発信されていった。様々な分野に及び、北アメリカのみならず中米、カリブ諸国、さらにはヨーロッパに住む黒人にも影響を与えた。
 1914年ニューヨークのハーレムに建てられたアポロシアターは、ハーレムルネサンスと時を同じくして黒人バンドや歌手、コミック、タップ・ダンスなどさまざまな芸術のたまり場兼発信基地となり、ビリー・ホリディ、ベシー・スミス、エセル・ウォーターズ、デューク・エリントンなどといったアーティストが活躍した。
 30~40年代には、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ジェイムス・ブラウンらが、毎週水曜日開催されるアマチュア・ナイトからデビューした。
 60年代に入ると、シュープリムス、スティービー・ワンダーといったソウル系のアーティストを誕生させた。
 代表曲を貼っておきます。

「It Don`t Mean A Thing」

3、ブギウギとストライド・ピアノ 
 ハーレム・ルネッサンスの主役となった黒人ピアニスト、ジェームス・P・ジョンソン、ユービー・ブレイク、ファッツ・ウォーラーらの活躍で、ジャズピアノの発展の引き金になった『ストライド奏法』が開発される。
 左手がベース(鍵盤の最左)とコード(中低音域)を大きく往復するさまを「大股で歩く」の意のストライドになぞらえた呼び名で、かってのラグタイム・ピアノから発達した奏法である。

 一方、シカゴでは『ブギウギ』が花形になる。ブギウギはブルースのピアノ化であり、A-A`-Bといった12小節を1コーラスとするのはブルースと同じである。これはピアノ・ソロでも演奏できたので、禁酒法時代のもぐり酒場や小さなクラブでもてはやされた。

 2曲紹介しておく。

「Pine Top`s Boogie Woogie」
「Ain`t Misbehaving」

3、スウィング・ジャズとビッグ・バンド時代 

1、カンザスからニューヨークへ 
 カンザスシティーはミシシッピ川流域のアメリカ中部の都市で、ジャズバンドを載せてニューオーリンズを出発したリバーボートがメンフィス、セントルイスに次いで寄港する町で、ジャズと深いかかわりを持っていた。禁酒法時代、シカゴと違ってカンザスは合法的に酒の飲める町であった。

 カンザスは黒人も多く、ブギウギやブルースも盛んであった。ここでカウント・ベイシーは読譜力に劣るミュージシャンにリフ(2~4小節の短いフレーズ)のリピートでソロのバックを務めるといった手法でバンド全体のスウィング感を高め、人気を得ることに成功した。さらに大きな成功を求めて彼はニューヨークに進出する。

 当時ニューヨークは不況を脱し、活況を呈しており、大規模なダンスホールやボールルームが次々復活し、ビッグバンドへの大きな需要を喚起した。
 そして多くのビッグバンドが誕生する。またレコード産業、ラジオ放送の普及がジャズを一般家庭にまでもたらし、ビッグバンド・エイジは隆盛をきわめる。

2、ビッグバンド 
 ビッグバンドの楽器編成は、4トランペット、4トロンボーン、5サックス(2アルト、2テナー、1バリトン)それにリズムセッション(ピアノ、ギター、ドラムス)といった17人編成が一般的であるが、60年代後半からは木管をくわえたり同族の楽器を減らしたりしている。

デューク・エリントン
「Take The ''A'' Train」

カウント・ベイシー
「One O'Clock Jump」

ベニー・グッドマン スウィングの王様として有名である。ジャズをクラッシックのように鑑賞する価値なあるものにしたとして評価されている。
「Let's Dance」
「Sing Sing Sing」

グレン・ミラー トロンボーン奏者で、同時に作・編曲家として多くの作品を残した。私の一番好きなジャズメンである。
「In The Mood」
「Begin the Beguine」
「Moonlight Serenade」

ビッグ・バンドエイジは日本軍による「真珠湾攻撃」から始まる第二次世界大戦によって幕を閉じる。

6頁目につづく

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

冒頭のアンサンブル貼り付けバンドいいですね。やまさんドラムで中央で決まってますね。篠田さんのウッドベースも渋いですし、トランペットとのスリーピースはかっこよすぎます!
 しかし、この時代のジャズは個人的には聞けませんね。最後の「Ain't Misbehavin'」はいい曲でしたが、育った時期のせいかモダンジャズ以降でないとダメですね、でも、いい勉強になります。ヽ(^。^)ノ

yamasan さんのコメント...

私はしんさま以上に耳に馴染みません。
 だからかもしれませんが、ジャズってでもどの時代のモノでもひどくモダンな感じがします。