2010年12月22日水曜日

ネットより読書

 インターネット引いて、約2か月、最近つくづく思うことは、

「ああ、パソコンに振り回されてる。」 

「インターネットで情報に瞬時にアクセスできるけど、なんか、たくさんの量がドドドと押し寄せ、情報のガラクタに押しつぶされそう。」

「だいたいインターネットの情報は、品がないし、奥ゆかしさもない。」
 
その点、本を読んで知識を得たり調べたりすることは、時間がかかるが

 「本から得たものは身についた実感があるわ。」
 
 「わからない調べものでも、インターネットのようにパッと明かされないが、奥の部屋や二階の本の堆積のなかにそれはひっそりと埋もれていて、わたしがごぞごぞとかき分け探しに来るのをじっと待っている。奥ゆかしさがある。」

「目が疲れたり、肩が凝ったときは、本をパタンと閉じれば、いつまででも待っていてくれる。体調を気遣って、畳の上で一緒に休んでくれる。」

「新しい発見をしたり、詩歌、小説を読んでちょっと感動したりしたときの癖で私は本をしばらく置く。そして、まるで小さな感動が本の形になったようにしばらく手で撫でたりして愛玩する。」

「ああ、本を読むっていいな。」

 というわけで初めのパソコン・インターネットの熱も冷め、この頃は本やノートに回帰しつつあります。もともと生まれつき鈍くて愚図のやまさん、パソコン・インターネットに時間を取られ、本を読む時間がなくなっていたのが気がかりでした。二つもするのは難しい。
 自分は本やノートの方が向いています。
 で、これからは読書に力を入れます

 昨日は雨でしたので、本を読み進みました。長井長義の「長崎日記」一応全部読みました。慶応2年11月から慶応3年7月までの9か月間、遺失したのも少しありますが、この期間の彼の行動、勉学はよくわかりました。
 化学実験に関しかなりな技能を実践・実習によって習得している。蒸留、抽出、ろ過、再結晶など基本的な操作を基本的な薬品あるいは試薬を作ることによって学んでいる。これはすごいことである。ふつう全く一から薬品を作り出し、そのうえで化学実験をするのは手間暇がかかるので、基本的な薬品は購入したりして他から手にいれる。しかし幕末の長崎では、輸入薬品が多少あるとはいえヨーロッパの化学者のように多くを他から手に入れるのは難しかったのであろう。それゆえいろんな化学薬品を作っている。わずらわしく時間も金もかかるが、しかしこのことにより欧米に伍していける化学者を養成することができたのである。
 定量的な化学分析の記述はないが、日記を読む前に想像していたよりもかなり進んだ高度な勉学をしている。

 さて、竜馬との接点であるが、当時竜馬は偽名で活躍しているが、長井は土佐人とかなり親密であったようで、本名を知っていたのである。これは日記の校正者の注にある。
 そこで「坂本竜馬」が記されてある唯一の箇所、慶応3年5月22日の日記

「・・・・・・船将は坂本竜馬と云う。脱藩人なれども兼ねて高名なる議論にて長薩の間に徘徊し、しかし二君には仕えず、ただ皇国の為と唱え・・・・・・・」
 伝聞の形での記述である。そのほかには見当たらなかった。もっとも日記は7月で終わっておりそののちも長井は長崎にいるから、これ以降接触があったかもしれない。

 長井は自然科学者を目指す者であり、日記の記述は客観・科学的なものである。詩歌や散文的な記述はない。しかし日記の最後となる慶応3年7月の盆の宵のことは読むと文学的な感興を催す。
 長崎は山が街のすぐそばに迫っている。盆の宵、その山の斜面に段々にある先祖の墓に家中集まり多くの蝋燭を灯し、献灯する。たくさんの酒肴を持ち寄り互いに酌み交わす。決してしんみりしたものではなく花火・爆竹など打ち鳴らしたとあるからにぎやかであったろう。
 夜、満山が灯火で天を焦がすのを見て、長井は、実に目を驚かす。と書いている。
 そして盆の終わりの夜、いわゆる送り火、ここ長崎では、おおきくりっぱなシャウロ船に灯火を灯して流したと、ある。彼は、「実に仰山なり。ついに八つ時より暁に至るまでこの船、絶えず。」と淡々と書いているが、読んでいて夜の川面を灯をともし揺らめき漂ういくつもの精霊船が目に浮かび印象深い。

 さだまさしの歌で有名なように昔から長崎地方は「精霊流し」がさかんであったのが日記から読み取れる。
  そしてこの6日後、日記は終わる。


  

1 件のコメント:

ワンピースファン ルフィと仲間たち さんのコメント...

龍馬との接点はありましたか!
ご教授ありがとうございます。 
良かったです。 
来年3月完成の映画
評伝映画「こころざし-舎(セイ)密(ミ)を愛した男」
で、
坂本龍馬との接点のシーンがあれば最高!