2022年7月2日土曜日

明日は何の日 その2(徳島大空襲)

  明日は7月3日、77年前のその日、戦時下でもあり統制下の耐乏生活ではあったが徳島市では日常の生活が営まれていた。市民が就寝につく時、明日も同じような日常が繰り返されるであろうことを疑った人はいない。この日は平日の火曜日、多くの大人は明日も仕事に従事し、子供たちは学校、または学徒の勤労奉仕に精を出すことになろうと思ったに違いない。

 しかし翌朝の(4日)の朝日を迎えるころ町は一変していた。深夜から未明にかけての焼夷弾攻撃により町の中心部はほぼ壊滅、まだ炎が残っているところもあったが、木造の建物は焼失、鉄筋の建物も外壁は残していたが内部は焼けていた。一面と言っていい焼け野原になっていた。無念にも翌朝の朝を迎えることのできなかった死者が千人近く、火傷、怪我などを受けた人は数知れなかった。このころになると他の大都市の空襲による大被害も聞こえてきてはいた、徳島もやがては、と覚悟する人も多かったが、実際の空襲の受けて、まさかここまでひどいとは思わなかったのではなかろうか。3日夜から明け方近くまで絶え間なく焼夷弾攻撃を受け、人々は必死で逃げまどい、明るくなって目にする前日と比べあまりにも変わった地獄のような町の姿、黒焦げであちらこちらにころがる死体、火傷で苦しむけが人のうめき、地獄絵図がここ徳島で現実となったのである。

 市内焼失地図


 焼け野原となった市街

 今、ウクライナではロシアによる都市への爆撃が行われている、ロシアは誤爆と主張したいようだがかなり怪しい。学校、病院、劇場、ショッピングモールが攻撃され大勢の市民が犠牲となっている。悲惨なことこの上ないが、多くの日本人にとってはそれは1万kmも離れた外国の出来事、絵空事とは言わないが、テレビでよくみる紛争地域の一つを放映してるなという感覚であろう。これが死体や断末魔に苦しむ人々のリアルな映像・動画にでも接していれば現代日本人も市民生活への爆撃がいかに悲惨なものかより知ることができると思うが、ご存知のようにテレビの編集ではそのよう映像は事前にカットされ(心的な病気にでもなると思っているのだろうか)流されないので、より切迫した悲惨な映像はあらかじめ除かれている。

 徳島の(特に若い人に)市民への爆撃がいかに悲惨なものになるかを知るには、何も1万kmも離れたウクライナの都市を例に出すより、我々が住しているこの土地で77年前に起きた徳島大空襲のことを知ってほしいとおもう。しかしほとんどの人はそれを知らないし、また「徳島大空襲」というのを言葉として聞いても、それについて詳しく知ろうとはしない。現代の人々は戦争で亡くなった鎮魂の日そして悔悟の日として8月15日を記念し、悲惨だった戦争についてあれこれ考える。しかしこの徳島においては戦争の最大の荒廃・犠牲のピークは7月3~4日であったのである。徳島の人としてはもっと知られかつ偲ばれて良い日である。

 私は昭和25年度生まれであるから空襲の体験はない。しかし、直接体験している人があれば話を是非聞いて徳島大空襲がいかなるものであったかその口から聞きたいと思っていた。しかし空襲時、物心がついた小学生であっても、今生きていれば85歳以上となる。先日知り合いの母親で、長寿で元気でいる人に徳島大空襲のことを聞いた。しかし当時は徳島近郊とはいえ郊外の村だったところに居住していたし、小学校低学年であったため「市内の空が真っ赤になり、滝のように落ちる火花(焼夷弾が)が多量の花火みたいななぁ~」との感想しか聞けなかった。本当に火炎地獄のような市内中心地にいておそろしい体験を刻んだ人はほぼ死に絶えた。

 しかし徳島大空襲とはいかなるものかもっと知りたいという私の欲求に答える手段は今でもある。図書館の古い蔵書から探した一冊が左記の本である。今から51年前、昭和46年に出版された。約60人の実際に被災された方が書いた、あるいは口述筆記の「体験談」である。登場する人はごくごく普通の市井の人、商業の人もいれば勤め人もいる、主婦、隠居さん、公務員・教師、通信運輸関係の人、などなど、要するにほぼすべての分野を網羅して話を集めてある。戦災当時50歳、60歳を超える人でも昭和46年当時はまだまだ活躍していて生々しい体験談を述べている。大方の人は自分の体験など文章にしたことのない人である(そのため口述が多い)。それだけに素朴な文、方言を交え、体験したことを述べ、感じたことを直截に自分の言葉で述べた訥々とした文章に真に迫る臨場感を感じた。

 体験談のどれにも当時すんでいた現在もほぼ同じ地名が残る住所、そして本名が記載されている。77年前に市内で生活していた私の大叔父、大叔母、あるいは親戚の名前がその中にみられても不思議ではない、そう思わせるくらい同じ方言をしゃべり、共通の地方色をもった人々である。しかし本名を見たところ私の親戚はいない、しかし郷土の体験談だけあって私との意外なつながりも発見できる。以下はその一つ

 焼夷弾攻撃は火災を起こすだけではない、なんと徳島中心市街地に354,664本も焼夷弾が上空から落ちてくるのである。その数と市街面積をおもうと密集して落ちているのである、そのため焼夷弾が人に直接当たる確率は高かった。直撃すれば多くは即死した。頭にあたり、まるで噴水のように脳漿が流れ落ちる人もいた。体験談中、直撃を受けたが肩に当たり即死を免れた人がいた、しかし腕は大きく損傷を受けちぎれそうなぶらぶら状態、それでもなんとか応急手当を受け、避難した先がなんと私が子供の時祖父母と住んでいたウチのすぐ近く、そして急いでみてもらった医師が私が小児のときお世話になった同じ先生だった。その方、壊疽を起こしかけ腕切断も一時は決断したが家族の必死の介抱(貴重な氷を手に入れずっと冷やし続けたそうだ)で半年間の療養のあとようやく肢体無事のまま危機を脱したそうである。もしウチの祖父母が生きているときならばこの人のことをよく知っていたと思う。これはわたしと意外なつながりを感じさせるエピソードであった。

 本の出版の昭和46年当時なら、あ、これ私の親戚、あるいは知ってる人じゃ、と思いながら我がことのように思い読んだ人も多かったと思う、しかし半世紀以上たって直接知る人がほとんど絶えた今、本から想像力を駆使してこの悲惨さを(本の上だけだが)知らなければならない。

 それにしてもこのような都市の一般住宅密集地の焼夷弾による絨毯爆撃は人道上目に余るものがある。東京下町では周りからまるで取り囲むように最初に焼夷攻撃をしかけ、火炎が取り巻き、人々が逃げられないようにしてからくまなく絨毯を広げるように、焼夷弾で人も家も焼亡させていった。まったく信じられないような鬼畜の行為である。いったいどんな理屈、どんな意思でこのようなことを行い得るのだろうか。

 都市に住む無辜の住民に対する無差別爆撃の最初は1937年、スペイン内乱時においてフランコ政権を助けるためイタリアとドイツのファシスト党がスペイン北部にある小さな町「ゲルニカ」であると言われている。第一次世界大戦の時の初期の飛行機は布張りの双葉機で小さく馬力も弱く、積載量もうんと少なかった、飛行機から操縦士がレンガを落として地上の敵を攻撃したというような嘘のような本当の話がある。しかし戦闘が激しくなるにつれ航空機の攻撃力は格段に進歩し、すぐに機関銃を備え、また小型爆弾を航空機から落とせるようになる(初期は操縦士が手で小型爆弾をつかみ目測で落としていた)。そして第一次世界大戦が終わり、ナチスドイツが再軍備を行う1930年代になると、空襲で爆弾を目的地に落とし破壊することに特化した「爆撃機」が現れる。その目的地が都市に選ばれたとき(ゲリラ、パルチザン掃討という名目はあったにせよ)それが都市無差別攻撃になったのである。史上初といわれる「ゲルニカ爆撃」である(ピカソがこれに怒り、有名な作品ゲルニカを書いたのは有名な話である)

 日本軍も都市無差別攻撃については拭えない汚点を残している。1937年から始まった日中戦争で中国の首都南京を落とし、これで停戦かと思いきや蒋介石政府は奥地の重慶に逃げそこを拠点に戦争を継続する。そこで日本軍は爆撃機を用いて重慶爆撃を行ったのである。それが無差別都市爆撃となり、あちらの言い分では1万余の民間人が死んだことになっている。これについては日本人の私として弁護するつもりはない。戦争行為だから軍人やゲリラ、パルチザンなどが死ぬのは仕方ないとしても民間人への無差別行為は許されるべきではない。ただ初めから無差別都市攻撃を意図したかは疑問がある。

 ここで「無差別都市攻撃」という言葉が出てきたがちょとそれについて考えたい。無差別都市攻撃の反対概念は何だろう?それは「精密爆撃」である。ピンポイントで軍事目標を狙えればそれに越したことはない。しかし今の進んだ軍事技術の粋である誘導ミサイルでも誤差は出るしピンポイントとはいえある範囲の円形の誤差はある。まして当時の日本軍の重爆撃機とは行っても爆弾は自由落下させるのである。航空機の高度そして飛行速度、機体の向きのベクトル、そればかりか飛行機から地上までの風向、風力を知り、それらを瞬時に計算して落とすタイミングを計らねばならない。それでは精密爆撃は可能なのか?結論から言うと一応いろんな変数を考慮しつつ爆撃しても誤差は数百mにもなり、精密爆撃にはならず、事実上家屋の密集する都市攻撃においては民間家屋民間人を巻き込む無差別爆撃となってしまうのである。日本軍は重慶の蒋介石政府の拠点を狙いたかったが結果として無差別爆撃となったのである。

 これは日本本土にたいするB29爆撃機攻撃についても同じことがいえる。若干の人道的配慮もあったし、何より日本の航空機産業、軍事産業をたたくのが第一義であったためアメリカ軍も最初は「精密爆撃」を意図していた。当時としてB29は最新鋭の超一級の大型爆撃機で機内にある爆撃標準器も上記の変数を入れれば即座に標準器のスコープの十字状に目標位置が目視で出て、それにあった時点でスイッチを押せば精密爆撃の爆弾が(理論上は)目的地に落下していくはずであった。しかしやはり日本軍と同じようにそれを使っても精密爆撃はかなり難しく、また高射砲などの反撃を避けるため1万メートル上空を飛んだとき経験したことのない強風に遭遇し(ジェット気流である)、超高空からの精密爆撃は極めて難しいことがわかった。結局難しい精密爆撃よりより安易な都市無差別攻撃(それも民間家屋を焼失させる焼夷弾爆撃)を選ぶようになる。

 都市無差別攻撃について、いまだにアメリカ人のいう理屈は次の通りである、その1、日本人は女性子供の別なく町中で兵器を作る作業に従事していてどこどこが軍事工場でここは民間地区だという区別はない。その2,重慶爆撃のように無差別爆撃を行ったのは日本の方が先であり、また真珠湾攻撃のような卑怯な攻撃をおこなった日本人に対し軍人民間人の区別なく懲罰すべきだ。その3,あくまで戦争邁進に突き進む狂信的な日本人を止めるのは都市を焼き払い厭戦気分を起こさせる以外にない。その4,確かに民間人は無差別爆撃で多数死んだが、それによって終戦が早まったのは事実で、これは戦争が続けばさらに増えるアメリカの軍人だけでなく、一般の日本人の命も多数救ったことになる(これは原爆投下正当化の理屈と同じである)

 このアメリカの理屈、どうだろう?とても納得できるものでない。戦争とは敵も味方もこのような理屈を打ち立てるのである。

 B29戦略爆撃機の搭乗員も家に帰ればおそらく善良な人々であったであろう。どんな理屈であれ、かれが弾倉のハッチを開き、投下のスイッチを押せば、下にいる普通の女子供が死ぬことは想像できぬことではないはずである。しかし高空からの爆撃はそのようなリアル感を喪失させる。ドローンによる自走爆撃をパソコン上で見ながらまるでテレビの戦争ゲームのように人が死ぬが現代の戦争であるが、高空の飛行機上からの爆撃はまさにそれと同じようなものである。飛びながらボタンを押すだけ、B29戦略爆撃機の搭乗員は多数の人を殺したという重みは感じないですむ。もしチクリと良心が痛んだとしても先ほどの四つの理屈がアメリカの飛行兵士の大義となりそれ以上の苦悶からは解放される。

 無差別都市攻撃でなくなった無辜の人々に我々はなんといって鎮魂したら良いのだろうか私にはわからない。広島の鎮魂記念碑に「過ちは繰り返しませんから、安らかにお眠りください」とあるが、いまでも過ちはなくならずに繰り返しているではないか、そもそも人として存在する以上過ちは永久になくならないのではないかと疑念がわいてくる、碑の文字もむなしく響く口先だけの言葉のように私には思える。

1 件のコメント:

Teruyuki Arashi さんのコメント...

ロシアの目的はわかりませんが、人間て愚かです。人って変われないです。