2020年11月29日日曜日

大正時代の廃線跡(阿波電気軌道)を行く

 モラエスはんは、随想や日記などで大正時代の徳島の風俗などを記述してくれている。徳島の土着の人が気づかないようなことを取り上げていたり、また日本人とは違う視点でいろいろ書き残してくれているので、大正時代のことを知るうえで貴重な資料ともなっている。 

 しかし残念なことに出雲に住んでいたラフカディオハンと違って郷土に伝わる昔話(怪談や妖怪話など含む)は彼の随想・日記にはほとんど出てこない。もし彼がラフカディオハンのように徳島の昔ばなしや狐狸妖怪の類の話を書いていてくれれば、昔の徳島の民俗研究としていい資料となったであろうが、なかったことはいくら言っても仕方がない。

 民話・民俗をあまり叙述していないモラエスはんが徳島の数少ない鬼伝説のある鬼骨寺の話を知っていたかどうかわからない。もし鳴門へ出かけてわざわざ鳴門北灘にある鬼骨寺を訪ねていれば、もしや鬼骨寺の鬼伝説も知っていたかもしれないと思うが、鳴門へはモラエスはん、二度ほど小旅行しているが鬼骨寺へ行ったという記録はない。

 ここからはいささかフィクションも含まれてくるが、毀滅の大正時代、モラエスさんが鳴門へ行くにはどうしたらいいか、ちょっとその交通手段を考えてみた。

 「交通手段って?」、「何をアホぉげぇ~たことをゆうとんかいな、国道11号線をまっすぐ、行きゃぁ、ええんでぇ、大正時代で車がなかったら、歩いていったらええんでぇ、朝はようでりゃ、ゆっくり歩いても日のあるうちには鳴門へつくでよぉ」

 と言われそうだが時は大正時代である。行くことはそう簡単ではない。吉野川の本流にはちゃちな木造の賃取橋はかかっているが、渡っても北岸は旧吉野川やその支流が蜘手のように流れていて、何度も何度も中小河川を横切らねばならず、まだ橋が架かっていない川も多い、そのため陸路で行くのは大変困難である。むしろ鳴門まで船を使うほうが便利が良いし、結果として早く着くのである。

 事実、モラエスはんが第一回の鳴門旅行を試みた大正四年、モラエスはんは新町橋のたもと(富田橋付近の可能性もある)から小さな巡行船に乗って鳴門・撫養の文明橋あたりまで行っている。その時、新町橋からどのような水路をたどって鳴門まで行ったか、以前ブログにしているのでそちらのほうを参照してください。(その時のブログ、ここクリック

 モラエス爺さん、第一回鳴門・撫養旅行では、天下の奇勝「鳴門の渦潮」を見学してきた。それから一年ほどたった十月、秋の良い日和のころであるである。モラエスはん、また鳴門への旅行を思い立った。実は前回の旅行でモラエスはん、鳴門への旅はかなり懲りたのである。巡行船はともかく狭い、船室は箱型だがとても立ち上がることなどできない、身をかがめて座っているか、横になって寝るかしなければいけない。空いていればまだしも鳴門航路は大体いつも一般客や商用客で混んでいる。モラエスはんは180cm以上の身長があるので、船内で過ごすのはほとんど拷問に近い。それが3時間もつづくのだ(鳴門まで3時間かかったことがわかる)、最初は船室にいたが、耐えられず、結局モラエスさんは船室の上の(屋根部分だろうか)オープンスペースに(風が吹き曝しだが)自分の居場所を確保し、やっと一息つけたのである。

 鳴門への水路は先の私のブログを見てもらったらわかる通り、北岸では大変複雑な水路を選ばなければならない、水路も曲がりくねっていたり、また狭い水路で水深は浅い、また上には跨ぐように小橋が架かっていたり、暗渠のようになったトンネル状のところもある。巡行船といっても喫水線も浅く、幅も狭く、特に船高は低く作られなければならなかった。そんな船だから満席で大男のモラエスさんが船室で過ごせるはずはなかろう。

 ともかく前年の徳島から鳴門までの水路を辿る旅は非常に不快なものであった。もう二度と行くまいと思っていたはずだが、再び思い立ったのはどうしてだろう。それは今年大正五年に徳島市の対岸から鉄道が撫養まで開通し、鳴門まで行けるようになったからである。7月には営業が始まり、それに伴い、徳島から鳴門までの所要時間が3時間から半分の一時間半に短縮された。何より快適になったのは、前年は鳴門まで3時間も不快な船旅だったのが、鉄道連絡に伴い、船旅は45分になったことである。おまけに新町橋(富田橋始発)から吉野川までの水路は幅も広く、低い橋もなく、広々とした水路を航行し、大河の吉野川横断などは、むしろ川の船旅の風情を楽しめるまでになった。

 さて秋晴れの一日の始まりを思わせるような朝焼けの中、モラエスさんは支度をして家を出た。この年モラエスはんは62歳で当時としてはもう十分老年である。足腰にちょっと不安もあったので、最近、良く付き合っている近所の士族の息子を鳴門の旅に誘った。もちろん費用すべてこちらが負担する。この息子、二十代、容姿はかなりいいほうで、人付き合いもいい男だが、どうも怠け癖があるらしく、家でぶらぶらしているので旅に誘うと喜んで同行するというので二人旅となった。(モラエスの随想を見ると実際、隣にこのような息子はいたようである。中等学校を落第したとか、小学校の教師もしていたとか書いている

 北岸の鳴門までの鉄道開通に伴い、船の便は鉄道の連絡船となる。一日8往復である。モラエスはんは早朝の始発便の連絡船に乗ることにした。モラエス宅の伊賀町から富田浜まではそう距離はない、あるいて十数分もあれば連絡船乗り場だ。いまこの発着場は富田橋たもと国木田独歩の文学碑「波のあと」があるあたりである。


 連絡船は水路航行のポンポン船であるが去年の巡行船より大きい。客室もかなり広く作られている。新造船ではないが、今年の連絡船開業に合わせ、大阪の水路航行船をこちらに運用したようだ。何より良いのは大きな船でないにもかかわらず、一等船室が区切られて存在していることだ。一等といっても固い椅子席で狭いが、詰めるだけ詰め込む下等の畳席と比べれば雲泥の差だ。当然モラエスはんは一等の切符を隣の息子の分とともに購入し一等席に乗り込む。

 当時の連絡船の写真は残っていないが下のような船だったと考えられる(これは大阪の水路を運航していた客船である)



 また郷土の画家・飯原さんが情緒のあふれる当時の連絡船を油絵で描いている。

 吉野川北岸までは所要時間45分、船着き場と隣接している連絡駅には鳴門行の汽車がひかえている。駅名は「中原駅」である。ここで乗り込めば一路、鳴門まで通じている、汽車の所要時間も45分である。連絡船の船着き場と駅は独特の雰囲気がある。この中原駅もそうだったのだろう。ワイの青春の旅を思い出してしまう、学生時周遊券国鉄の旅、終着駅青森駅、一斉に駆け抜ける連絡橋、そして乗り込んだ青函連絡船、函館港に待機している列車、乗客に食べ物や土産を売る行商の人々・・いやそんな遠い例を出さなくても、ワイらの若い時、まだ瀬戸内海に橋は架かっていない、高松駅で宇高連絡船に乗り換えたときのあの雰囲気、そぞろに旅愁を感じるのである、そして連絡船内で食べた宇高名物の「うどん」おいしかったこと・・などなど、かろうじて令和の歳寄りは連絡船の独特の雰囲気を覚えている。

 しかしモラエスはんは若いころ七つの海に雄飛した海の男である、連絡船ごときの船着き場に情緒などは感じない。むしろ何かの手伝いにと同行した隣の息子のほうが、一等船客扱いに舞い上がったか、連絡船波止場の雰囲気に酔ってしまったが、立ち止まってグズグズしている、さっさと列車に乗り込んだモラエスさんが、車窓からこの青年を促す始末となった。

 連絡船客が乗り込めばすぐ出発しようと蒸気圧を上げた機関車が待機している。この駅は連絡船の乗換駅ではあるが、函館駅や宇野駅と違い始発駅ではない。始発駅はもう一つ手前の「古川駅」である。この始発駅・古川は今、吉野川橋の北詰あたりに旧駅舎があった。なぜ連絡船の船着き場が始発駅にならないのだろうか?

 今、この旧古川駅あたりは昭和3年完成の鉄橋(車・人・軽車両用)「吉野川橋」がかかっている。当時はそんな立派な鉄橋はなかったが、明治になって地元有志が資金を募り、吉野川南岸からここまで「木造橋」が作られていたのである。かなり長い橋であったが頑丈なものではなく、洪水にたびたび一部、あるいは大半が流されるちゃちなものであった。それでも渡し舟に頼ることなく吉野川の南岸から北岸に行けたのである。下がその木造の古川橋である(写真と先ほどの飯原さんの絵もあげておく)。水害でよく一部流失するため橋は木造のつぎはぎだらけで時によると、補修が間に合わず、一部船を並べての浮橋の部分もあった。当然、荷重が過度に加わる場合、つまり混みあうとか、過度の重量を持った車などは通行を制限された。また現在と違い、このような橋は賃取橋で通行料がいった。


 大正以前に上図のような木造の橋が架かっていたため、吉野川を渡し舟で渡らなくてもよく、徳島市街から歩いて橋を渡った人は、大正五年に阿波電気鉄道がここの始発駅・古川で鳴門行の列車に乗ることができた。だからこのコースととると全く船に乗らずに鳴門まで行くことは可能で、実際、始発の古川から乗る人も多かったが、徳島市内から行く場合はかなり不便であった。ここまで乗合自動車(バス)が出ていればいいが、乗り合い自動車が初めて徳島を走ったのはわずかこの二年前で、この年になっても市内の乗り合いバスはたった一台、それも南の方の路線を数往復したくらいで市内から吉野川北岸の古川まではいく乗り合いバスはない。そもそも上図のような貧弱な木造橋でそんな重量の乗合自動車を走らせるのは無理であった(ブチめげてしまう)。乗り合いバスやトラックが通れるようになるのは昭和三年の鉄橋・吉野川橋の完成を待たねばならなかった。

 だから鳴門へ行くのにどうしても舟に乗るのが嫌な人は、市内からテクテク歩いて今の吉野本町の堤防まで歩き、そこに架かっている賃取橋の入り口で金を払い長大な(1km以上ある)木造橋を歩いてようやく橋北詰にある古川駅で列車に乗れるわけである。そのようにして市内から歩いて古川駅へいって鳴門行に乗った人もいるにはいただろうが、それより富田浜や新町橋から出ている連絡船で北岸の中原駅まで直行し、連絡列車に乗るほうが時間的にも早いし、また快適であった。

 その路線を示した絵地図があるので見てみよう。これは昭和6年の絵地図であるので、大正12年に開通した池ノ谷~鍛冶屋原線もあるが、鳴門線は今と同じ池ノ谷から東へ分岐している。(昭和6年の吉野川橋はすでに木造橋でなく今と同じ鉄橋となっている、ただし鉄道橋は昭和10年の架設を待たねばならない


この路線を今と比較すると、鍛冶屋原線は昭和47年に廃止されてないが、鳴門線は今も残って営業を続けている。ただし、昭和10年に吉野川に鉄道橋が架かり、佐古から吉成駅まで通じたため吉成から古川の間の路線は廃線となった。上の絵地図の中原駅~古川駅はそのため今はない。

 その吉成から古川までの廃線跡を、ここかな、と見当をつけつつ歩いてみた。その前にググルの地図で昔の廃線跡をあらかじめ予想しておいた。下記の地図がそうである。


 赤い線が廃線跡と推定されている。しかし吉成から中原~古川までの線路は85年も前に廃線になっているのでその跡地の痕跡は全くない。ただ黄色の矢印①②③の地点あたり、黒い線で示している区間は現在の道と一致している。それ以外の区間は田畑や住宅敷地である。そのため廃線跡を辿る(歩く)といっても黄色矢印①②③あたりの道路と、中原駅から古川駅までの赤い破線(ここは現在堤防下道路が走っている)で表示されているところだけである。(この点、旧鍛冶屋原線や旧小松島線の廃線跡は道路になっていたり、記念の遊歩道になったりしているので、辿ることがずっと容易である

 出発!

 大正五年の開業時もこの位置にあったであろう「吉成駅」を出発


 分岐の線路が中断し、錆びたまま放置してある。大正五年の分岐線路ではないだろうが、旧中原~旧古川駅方面は方向としてはこちらに分岐している。


 下の写真で、ちょっとわかりにくいが少し盛り上がった線路跡をずっと伸ばしてみると道路となっている(送電線鉄塔の左)。これが上の地図で示した①黄色の矢印あたりの道路である。


 この道路は県道・北島応神線の下を抜けて続いている。


 この県道下のトンネルを抜けて、振り返って撮影した写真が下である。この辺りはほぼ大正五年開業の旧線路跡とみてよい。


 そして下は、上の地図の黄色矢印②を通り過ぎて振り返り、北向きに撮影した写真、この辺りから、道路と廃線跡が一致しないため辿れ(歩け)なくなる。赤信号あたりから右に(畑の中)曲がっていると推定されるため、歩くのは無理となる。


 途中(地図上でも示されている)、別宮八幡神社があったのでお参りする。


 再び③あたりで道路と廃線跡が一致する。下が③から、旧中原駅があったであろうあたりを撮影した写真。道は左にカーブしているがカーブミラーをずっと進んだあたりが中原駅と推定される。


 連絡船船着き場と中原駅(推定)の間は今は高速道路と吉野川堤防ある。高速道路下を抜け、堤防に上がると広々とした吉野川が広がる。この辺りに連絡船の船着き場があったのだろう。


 先にも言ったようにこの連絡船乗り場の中原駅は始発ではない。さらにターミナルの古川駅まで線路は伸びている。この中原駅からは堤防沿いに線路が走っていたと思われる。下は中原駅と古川駅の中間点あたりの堤防下道路、左の藪のあるあたりだろう並行に旧線路が走っていた。

 

 そして今の吉野川橋北詰の少し手前、四国大学(写真左)があるあたりが始発・古川駅があったあたりであろう。

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