2022年1月29日土曜日

医学史の一コマから

  今年で私は満71歳を迎える。若い時から不摂生、偏食、そして奔放な生活、よくぞこの歳までいきたと、ある意味感謝せねばと思ったりする(とはいえ今晩にでも死神が迎えに来たら、もうちょっと待ってつかい!、というだろうなと思うが)、人生を振り返ると、幸いなことに死んだかもしれないような事故には会わなかったが、二度、もし現代医学・医師の世話にならねばおそらく死んだかもしれないという病気にかかった。一度目は小学校5年の時、風邪と最初は思っていたが40度近い高熱が何日も続き、意識はほとんどなったが、時たま意識は回復する時があったが、ともかく苦しくて目を開けてみる視界、天井の隅には変なモノが浮かんでは消えたりしていた。それを救ったのは当時新薬とされた(田舎の医者がようやく処方できたという意味で)クロマイ(クロロマイセチン)・抗生物質であった。内服すると効果は劇的で日中に服用したとおもうが夜にはもう意識もはっきりし熱もほぼ平熱になった。子供心にも、この薬で助かった、もしこの薬がなければおそらく11歳で死んでいただろうと思った。

 そして二度目は、57歳の時、後で診断されて前立腺肥大(前立腺の良性腫瘍の一種9と分かったが、前夜の就寝前から尿が全くでなくなったのである。膀胱はパンパンになっているが、力んでも尿のしずくも出ないのである。まだ夜の開ける前であったが、はち切れんばかりの膀胱、七転八倒するような下腹部の苦しさで辛抱ができず、夜間救急外来へ駆けつけた。どうなるのだろうという不安、そしてじっとしておれないような苦痛であったが、医師は大したもんだ、このような尿閉処置には慣れているようで、導尿カテーテルを尿道口から差し入れ膀胱から尿を輩出した、膀胱から尿が出るにしたがって潮が引くように苦痛、苦しみはなくなっていった。もう地獄から天国であった。あとで考えた。この尿閉に対しもし導尿ができなければ、尿が排出できず、苦痛のうちに腎臓がやられ、最後には尿毒症になったのは疑いない。もし私が明治以前に生まれていたら、おそらくもがき苦しみながら死んだだろうと思う。

 この私の死ぬような苦痛である尿閉を救ったのは導尿カテーテルであるが、医学歴史的遺物としてみたのは長崎へ行った時であった、長崎に江戸の文政期にできたシーボルトの医学塾・鳴滝があるが、その中に当時の西洋医学の外科的器具が展示してあった。メス、ハサミのようなもの医学的のこぎり、浣腸器のようなものもあった、その中に導尿カテーテルがあったのである。これを見たとき、

 「ああ、あの尿閉の死ぬような苦しみ、江戸・文政期であっても蘭方医ならば、尿閉でも助かったのだなぁ」

 と思った。江戸期蘭方医が医学の救世主のように(名前倒れもあるが)噂されたのもわかる気がする、古来の漢方医では尿閉はお手上げだっただろう、そのままの放置では七転八倒で苦しみ抜いて死ぬだろう。私が体験したような尿道カテーテル処置によって、あぁ助かった、地獄から極楽とはこのことじゃ、とおもったが、江戸時代の患者も同じように思ったに違いない、手を合わせ拝みたくなるような、オランダ医学の成果であろう。

 抗生物質が一般化するのは20世紀も半分過ぎてからだが、西洋において科学(解剖学、化学と結びつきながら)として医学の知見や臨床処置の経験を体系化された、その進歩は遅々としたものではあるが、確実に、患者の苦痛を軽減し、目に見えて治癒できる症例も増えていった。

 この医学的遺物である尿道カテーテルを見たのはシーボルトが開いた鳴滝塾であったが、この塾の学頭というかシーボルトの第一の弟子はわが阿波藩の人である。藩医の家系であった「高良斎」である。先日、眉山会館から細道を通り寺町を歩いているとその人の墓があった。

 正善寺の墓地であり入り口にはこのような案内の石柱がある。


 そしてしたが高良斎の墓である。彼ならば江戸時代ではあっても尿閉の患者の苦しみは治癒できたのである。


 江戸時代の医師であっても、患者を救えず、死なせてしまうことは大変残念であったろうと思う。人はいつかは死ぬものである、でも苦しむ患者を診て、劇的な全快は無理としても少しでも苦痛を軽減させてあげたいと思う。若く探求心のある医者ほど医師の無力を思い知り、どうにかしたいと強く思ったはずである。でも何とかするという手立てはむつかしく、たいてい患者は今までのような苦痛をたどり、死んでいった。

 しかし、かすかな光は西方、日本のはずれ長崎からもたらされる、阿蘭陀医学ならばなんとかなるのではないか、医学の素晴らしい成果も聞こえてくる、挫折感を味わった若い探求心のある医者は、何としてもその医学をものにしたいと思ったと思う。高良斎はそのような阿波の医者だった。一カ月近くかかる長崎のまで旅をし、シーボルトに弟子入りし、阿蘭陀医学を学んだのである。文献が少ないため阿蘭陀医学によってどのような成果がもたらされたのか、詳細にはわからないが、眼科の外科的手術、各種の手術、梅毒の当時としてはかなり斬新で有効な効き目のある水銀療法、そしてこの導尿カテーテルの処置もそうであろう。

 18~19世紀にかけ西洋医学は学問として目に見えて進歩したが、西洋医学にしても江戸期、普通の町医者が苦悩したような悩みを経験している。もっとも西洋の場合はその苦悩、そして探求のためヨーロッパから最新の医学を持っているイスラム世界への学問の旅は高良斎より800年ほど早かったが。

 ここでちょっとおすすめビデオ(DVD)、市立図書館にある「千年医師物語」、うえで述べたような医師の苦悩、そして医学先進地区への長期の旅、そこでの学問、治療の無力感、それでも未来に見えるかすかな光・・・など、医学史としても、ドラマとしても楽しめます。よかったら借りてみてください。



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