2022年1月21日金曜日

思い出の旅・桜島溶岩温泉からの記憶

  最近も友人に、死ぬまでに歩き遍路を実行したいなぁ、といったら、大昔からずっと言ってるが、まだ言ってるの、と笑われた。歳が行くほど実行はますます困難になり、まぁ、時々、願望を表出して、すこしでも心をいやしているのかな、と自分でも思う。

 あぁ、やだ、やだ、歳ぃいくとできもしない願望を繰り言にしたり、昔はこのようのことした、昔はよかった、というたぐいの話が多くなる。今日のワイのブログもその一つかもしらんが、毎日サブぅて屋外をウロチョロできないから、室内でいるとそのような昔の思い出、繰り言がつぎつぎ頭に浮かんでくる。

 前のブログで、全国を放浪していた時にいった桜島溶岩流原野の話をした。三十数年前といったが、残っている記憶をしっかり掘り起こすと出発したのはワイの満39歳が終わるギリギリの年だった。放浪といっても、歩きでも自転車でもなかった。車であるから、歩きや自転車で日本一周する人から言えば、「ヘタレが!」と馬鹿にされるかもしれないが、40に近いおっさんだから仕方ない。そのかわり、二年近く全国をふらふらしていたので日本全国、九州の南端から北海道の北の端まで一周どころか、三周くらいできた。

 費用?それまでに蓄えた金500万近く、札束にして車に乗せての旅である。ちょうど世はまだバブルの時代(そろそろ終わりかけてはいたが)、そんな時代の風潮もあってか仕事をやめて中年のプータローにしてはかなり豪儀な全国放浪の旅である。まぁ一年以上は野宿もせずに全国旅が続けられるだろうと、あまり考えもなく出発した。

 全国放浪の起点は南九州にした。その数日目が前回のブログで思い出した、桜島溶岩流原野である。桜島はそれまでに(まだ仕事を持っているときに)きたことがあった。鹿児島市内からフェリーにのり上陸するのであるが、この時は行きは鹿児島市からフェリー、帰りは大正時代の噴火で島が陸続きになった溶岩が海峡を埋めた道を走った。

 その時はデジカメもまだ一般的でなくカメラはフィルムだった。カメラも一台乗っけていたが、その時は全国どのようないい風景であってもカメラに写真を納めるつもりはなかった、常に移動するのに現像も大変ということもあったが、ワイの身一つで数々の名所に行きその経験だけでいいと思っていた。ただノートに、毎日数行、いった場所、簡単な印象の記録、そして泊まったところ、を簡単な日記風に書いていた。しかしそのノートも、数度目の全国一周の北海道の紋別でなくしてしまい。書いた記録はほとんどなくなった。

 だから今となってはおぼつかなくなった記憶のみが頼りである、しかしよほど印象に残ったところしかなかなか思い浮かばない。でもテレビや、あるいはある地方の写真を見ることがきっかけとなって思い出すことがある。また今でもある県のある名所を特定して思い浮かべる努力をすると、少しは記憶もよみがえる。自由解放を求め気ままな旅を求めて旅をしていたので、浮かび来る記憶はどれも甘美である。

 前回の桜島溶岩流原野もブログを書いてから、いろいろ思い浮かべる努力をすると、大したもんだ!その溶岩流温泉の薄暗い湯船、大きなガラスの外壁を通した夜の溶岩原野の風景が見えたことを思い出した。そうだ!その温泉はたしか国民宿舎かなんか公共の宿だった。できるだけ宿泊費用は安くあげたかったので、国民宿舎、公共の宿、あるいはユースホステルなんどに泊まったのだ。

 そこでまた、ハットと思い出したことがある。先にも言ったようにどこの場所でもワイはその時写真などは撮らなかったが、そのあと、いや前かもしれないが、鹿児島県、宮崎県、熊本県の三県が接する県境の山奥のユースホステルで止まった時、ペアレントさんが集合写真を撮って送ってくれていたことを思い出した(ずっと後になって家に帰って家人から渡された)、我が家には過去の写真がたくさん蓄積されているが、まさに蓄積で全然整理していない雑然と放り込んである。夕べ、時間をかけてその中から探した。時間がかかりうんざりしてもうよそうと思ったとき、出てきた。したがそれである。だから前回のブログで溶岩流原野で温泉に入り、火山博物館を見たのは、この数日前か、あるいは数日後か、であろうと思う。全国放浪の写真は残っていないなかで放浪の旅の起点初めのころの貴重な写真の一枚である。

(目隠しはしていないプライバシー云々もあるだろうが、31年も昔である、一緒に写っている20歳の学生でも今は50歳すぎたおっさんおばはんになっている、本人以外は同定はできまいと思い、あえて顔出しの写真を出した。ボードに宿泊者の名前を書いているがこちらは消してある。座っているのはユースのペアレントさん、立っているのが私も含めたその日の宿泊者である)

 あぁ、なつかしい、できたらあの日にかえりたいわ

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