2022年1月24日月曜日

少年よ大志をいだけ、でも道はいろいろあるぞ

  金曜夜、銭湯でたっぷり温もり、汽車に乗った。(もう昔と違い、ワイの街には銭湯さえない)かなり遅い時間にもかかわらず、汽車の中には制服姿の、いかにも真面目そうな、というのも英語の単語帳や、参考書などを広げて勉強している、彼ら彼女らの制服の形からいくつかの進学上位高校であると知れる。ふと思った、当然彼らの当面の目的、つまり一過程の手段である目的大学入学を目指しているのは間違いあるまい。よく世の大人たちはしたり顔で、大学入学が目的となってはいけない、あくまでそれは手段でそれを基礎に自分が本当にやりたいことを常に忘れるな、という。しかし考えると16や17歳の少年に人生の価値のある本当にやりたいことがはっきりと定まっているだろうか?

 また世の大人は、使い古された定型句ではあるが、「大人はな、あぁ若い時もっと勉強していい大学へ入ってればよかったと思う、そう思ってからでは遅いんぞぉ、いまはしっかり勉強していい大学に入ることかんがえにゃ」ともいう人が多い。実際に16・7歳の子供を持つ親なら、とにかくいい大学に入ることに今は一心不乱に努力し、そのあと、人生は長いんだからそれを踏み台に次のステップに行けばいいと思っている人が多いだろう。少年にこれからの人生の展望が見えているわけでもないし、やはり世の人や親の言う通り16・7歳の少年はともかくいわゆる入試科目といわれる勉強に頑張り学力がつけ、いい大学に入るのを目指すのが教育を施す立場から見たら一般的になるのだろう。

 遅い列車の中に真面目な進学校の高校生が乗っているのはなぜだろう、おそらくは市内でも実績のある名の知れた予備校へ学校が引けてから通った帰りだろう、徳島駅午後9時過ぎの汽車である。有名国立大学は共通テストに英国数社理と五科目あるから、それぞれの学習塾へ行っているのだろうか?いやそうではあるまい、ちょっと考えるとわかるが、国社は自習でもなんとかなりそうであるが、英語、数学、そして理科の中でも物理・化学なんどは、自習では超難関校の試験には歯が立たないのであろう。そのため多くは英語塾、数学塾に通っているのだろう。

 先日、共通一次テストが終わった後、どの新聞にも各教科の試験問題が載った、ちなみにワイがざっと見て解こうとした。しかしまぁ、平均点が取れそうなのは歴史、国語くらい、英語は制限時間が二倍くらいあればなんとか平均点は取れそうかな、とおもうが普通に解いては平均点も取れまい、数学、物理に至ってはもうお手上げ。

 県内の超進学校はどのような目安でその評価がされるか、というとワイの高校の時とそう変わらない、東大、京大の難関国立校、それと大学は問わないが医学部に入る人数である。なるほど、そう考えると、大概の人が苦手な数学、物理、英語などの塾がそれら入試のためにはやっているのもうなずける。

 たしかに16・7歳の少年が、人生の目的はとか、一生を通じて価値あることは何か、そもそも学問するとはどうゆうことか?なんどと哲学的なことを考えていては、超難関校の入試試験に割く時間が無くなるだろう。もっとも稀ではあるが天才的な少年なら同時並行で、入試科目も網羅し、学力をつけつつ、このような哲学的なことを考える子もいるだろうが、まぁ大多数の有望な少年はそれに向けて寸暇を惜しまず勉強するのだろう。

 ワイの住んでる田舎では、旧帝大の国立に入るより、むしろ医学部に入ったほうが、すごいなぁ、と尊敬、いやほとんど羨望でみられる、少年の同級生の間でも医学部合格となれば一目置かれるだろう。そんなこともあるのか、進学塾の学習や在学中に定期的にある学力テストで、英語は当然だが、理数に強く、伸びしろがあるとわかれば、医学部を目指す子が多いし、また親も協力にサポートする。これらはワイが高校生の時代、半世紀以上前から繰り返されてきた。これはうちの田舎だけかもしれないが変わらぬ傾向であるように思われる。


 ここで少し話題を転じる。お外はサブイ日が続いているが、暖温帯(照葉樹林気候ともいう)に属するここいらへんは、雪もなく、風がなく晴れれば日だまりはけっこう温かくなる。外景を彩る花も真冬でも絶えることがない。その中でも寒椿や山茶花の紅色の大輪、そして水仙の黄色の花芯を持つ小さな白い花の二つの花が目に付く、水仙は花も大きくもなく、草花の類であるが、まっすぐ線形に伸びた青々とした葉をもちまた独特の芳香を周りに漂わせている。山茶花・ツバキ系の花には華やかさ、水仙には清楚な美しさを感じる人が多い。この水仙は花壇だけでなく、野生化しているのか、線路沿い、土手などに群れて沢山咲いている。

 花には花言葉がある、ほとんどの花は花言葉を持っているが、一般的に知られている花言葉は少ない。その中で水仙の花言葉は多くの人が知っている。ギリシャ神話に出てくる有名な話をもとにしているのでそれと合わせて覚えている。水仙の花言葉は「自惚れ」別の言葉でいうと「自己愛」、あまりいい花言葉ではないが、私は「愛」、もっというと「エロス」愛だが、これにはいろいろな志向があって、異性愛もあるし、同性愛もあるし、また自己愛も含まれている。古代ギリシャは後のキリスト教が広まった中世以降と違い、このような多種のエロスが考えられ認められていた。そのなかで自己愛だけが低められ貶められるいわれはなかった。

 この水仙の花言葉は、ギリシャの美青年ナルキッソスの自己愛(水に映った自らの姿に惚れるのだから精神的な自己愛ではない)に基づいている。そして神話では自己愛に異性愛が絡みつくという展開をみせる。すなわち、ナルキッソスの美貌に美少女が恋をするのである。ギリシャ神話のエロスで面白いのは、異性愛、同性愛、自己愛が複雑に入り組み絡みついているのである。どの神話のエロスの話でも、美青年とか美少年とか出てきたら、異性愛が主題であっても同性愛、自己愛のエロスが加味されている。とまぁ、ワイとしては自己愛もエロス愛の一つとして異性愛、同性愛、と同等にみていて、自惚れも、ただし「美」をともなってだが悪くはないと思っている。

 なんで水仙の花言葉の「自己愛」を出してきたかというと、今週発売の某週刊誌の見開き目次にこのような言葉を見たからだ。最近ちょっと話題になった、学力が落ちたため東大医学部入学に支障をきたしたと感じた17歳の少年が共通一次のテスト会場の東大前で3人を傷つけた事件の週刊誌なりの詳報である。その見出しが

「同級生女子に告白、僕の賢い遺伝子の子を作りたい!」

 である、週刊誌の内容までは見ていないが、告白とあるからラブレターかなとも思うが、そうでなくても、他人に。僕の賢い遺伝子の子を作りたい、とは恋文でなくても、まぁなんと自惚れの強い子だろうと、普通に思ってしまう。週刊誌もそのような印象を与える見出し作りをしているようだ。

 でも17歳のかなり頭の良い少年がこのように思ったとしても、異常ではない。人格形成そして自信の芽生えの過程の中で、少年がこのように考えることはあり得ることである。ここで自分の過去の青少年時代の記憶を思い出してほしい。世界は自分を中心に回っていると、考えたことはなかったろうか?私はある。というのも、高校時代、世界の森羅万象はすべて自分が作り出したもので、自分が消滅すれば、自分が作り出した外界も、自らが消え去る時一瞬でなくなる、と妄想(?)に取りつかれたことがある。誰しも一度は(青少年のとき)そうは考えなかっただろうか?え?考えなかった。

 「それは失礼しました、ワイも高校時代はかなりなうぬぼれやったんやな」

 17歳の少年、3人を傷つけ、罰は受けねばなるまい。殺人に至らなかったのはよかったと思う、未成年だから前科も秘密にされ、再出発、新規再生も許されようが、医師を目指すことはやはりあきらめたほうがいいと思う。

 自己愛そのものは悪くもなく醜くもないどころか、ある場合は美しくもなる。しかし、ギリシャの美青年・ナルキッソスは水に映る自分の美しさに惚けてとうとう水仙になってしまった。神の怒りともいわれるが、それにしては美しく薫り高い花である、むしろ「昇華」というような次元の違った美しさに結晶してしまったとみることができる。

 自己愛が過剰に過ぎたかもしれない17歳の少年、ギリシャ的愛である「自己愛」が昇華し美しい結晶になればいいのではないかと思う。エロスの愛や美に惹かれる17歳の少年は、私のような他人が、はたで見ていても美しく感じる。実際のこの少年の外見的美醜は関係ない。三島由紀夫は金閣寺を炎上させた大学生兼金閣寺の侍僧をみて、エロス愛や美を見たのであろう、文学史に残る大作「金閣寺」を書いた。

 この少年、将来を思うともう医者はまず現実的選択ではない。彼の知能や、愛の過剰さを思うとき、なにか「美」にかかわる仕事をして、形あるものを作り出せないかなと思う。三島由紀夫のような小説家の道もその一つである。小説家ならどんな大胆かつ不道徳、人倫に背くことでも考え、それを文章にすることが許される。

 私は1969年(私が高校三年だ)から50年間、映画フーテン寅さんの大ファンである。50年後、寅さんが亡くなった後、甥の満男を主人公として最終作が作られたが、なんと中年になった満男が売れっ子小説家となっているのである。しぶしぶ勉強をし、落第浪人し、やっと名もない私大を卒業し、就職しても腰の定まらないあの満男が小説家になってもてはやされているのである。満男でも小説家になったのだから、私の見ることろ三島由紀夫のヒーローに出てきそうな感受性が強く知能が高く、過剰な愛を秘めたこの17歳の少年が、自ら小説家となり、作品の中で素晴らしいヒーロー、ヒロインを作り出すのは大いに期待されるのではないか。

 小説家は将来の選択の一つである。まだ17歳、人生は長い、しかし若さの感受性の強さ、新鮮な審美感はすぐ移ろってしまう、人生の一番輝いている時を今生きているんだという自覚をもってなんとか立ち直り、素晴らしい人生を歩めればいいと思っている。

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