2022年1月28日金曜日

癒し

  前々回のブログで、ウチら田舎の優秀な高校生は医学部を目指す子が多いと書いた、しかし医者は、研究者となる医者を除いて患者と向き合わねばならない。職業としてはよほどの覚悟や倫理観、そしてできれば話術が巧みであることが望ましい。というのも最近の患者は扱うのはむつかしいと思う。

 時代が進むとともに医学は進歩し、多くの病気が治るようになり、人々の健康に過ごせる寿命もたいへん延びた。 医学も科学であるから過去からの医学の知見、技術の蓄積でなっている、だから人体の生理を極め病気そのものを治すのは時代とともにたやすくなっていく、医師個人の能力の向上というより、今までの治療の成果蓄積の成果が集められ、その膨大な経験が例として、この病気治療にはこのようなマニュアル適応されるという経験がたどれるのである、だから医師は診断がついたら、その多くの治療マニュアルからどれを選択するかということになるが、これも先人の多くの症例カルテが残っているので時代とともに、この意味では医師は楽である。

 また漫画上の伝説の医師のブラックジャックのように神業的な手術の腕前はやはり高度な技術として今も医師(特に外科)に望まれるのではないかとも思うが、最近は細かい手術、それこそ顕微鏡で見なければならないような患部の手術をはじめとして、機械に頼る手術、ロボット手術ともいうようだが、そのような手術が多くなり、これからもAIを組み込んだロボット手術は多くなるであろう。そうなると容易とまでは言わないにしても昔と違い医師の知力・能力の向け方が違ってくるだろうと思う。パソコンを前に電子カルテ、そして検査技師群から上がってくる各種検査のデータ、そして過去の症例集のデジタル資料、そして治療のマニュアルの選択チャートをパソコン画面で見ながら、患者の治療を決断する、極論を言えば、患者の顔をほとんど見ないでパソコンのみで診断から治療までできそうである。手術にしてもAIを組み込んだロボット手術が主流になると医師の人力・知力は、よく言えば軽減、悪く言えば楽ができるようになる。

 このようにこれからの医師の仕事を考えていると、今朝、ニュースが飛び込んできた、どんなトラブルがあったかしれないが、もしかすると何か医師の治療上のトラブルか、たぶん患者だったのだろうある家の弔問に病院の医師が複数のスタッフとともに訪れ、この家の男から被害にあい心肺停止という、詳細は分からないが、このような医師、患者のトラブルは事件にならないまでも近年多く発生していると推察できる。なぜ、そうなるか、医師と患者の関係の希薄さがその大きな原因であるような気がする。

 確かに患者は病気に対する最も適切な処置を求めている、治療最優先ということも当たり前の話である。しかし患者の立場から言うと、肉体的治療のみを求めている人ばかりではない、「癒し」を求めて医師にすがる人もいるのである。これこれの検査の結果、このように診断がつきました、だからこれこれの治療を行います、と機械的に医師に受け答えされて、それが「癒し」となるであろうか?などというと多くの患者を診て、患者の心までいちいち知る時間もない、だからそれはむつかしい、だから日本でもアメリカのようにそのような場合は病院に心理学の専門家や医療心理療法士が常駐して分業し、そのような役目を分担するのがこれからの医療の在り方だからそうすべきだ、という意見がかえってくる。確かに複雑化、専業化した近未来の医療界はそうなるかもしれないが、やはり私としては診察室で向かい合う医師に「癒し」求めたいと思う。

 そのため私は、積極的に医師に対し、いろいろお話をする、もちろん全く関係のない話はできないが、関連した話はいろいろ思いつくし転がっている、診察室へ入る前に、いろいろ話題を考えたりもする、そして多様な話題を持ち出すことにより、それが案外私の「癒し」となっている場合がある。ただ、あからさまにそ医療関連のこととはいえ焦点の定まらないぼんやりした話を出しても乗ってこないというか無関心な医師もいる、すべて診断かつそれに基づく治療と合理的に割り切ってカルテから引き出される話題一本やりに戻る医師もいる、ちょっとそれでは「癒し」にはならない。

 「癒し」というのは多義でなかなか定義がむつかしい、「癒し」医師の専売特許ではないし、偉大な宗教家の行為にも使われたりする、しかし「癒し」は英語ではホスピタリティという、これはまさにホスピタル、病院の語源である。

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