2020年10月18日日曜日

歳ぃいくとビトルズの歌詞が違って聞こえ出した、抹香臭いジジイになったせいか?

  ビトルズの曲はどれも素晴らしいと思うがその中でも「レトイトビィ」は特に私のお気に入りである。この曲は私が高校卒業したまさに3月リリスされたもので今でも聴くと青春の思い出がよみがえってきそうである。まあゴチャゴチャと能書きを垂れるまえに取り敢えずヨウツベからその曲を聞いてみよう。オリジナルではなく、ストリトミゥヂシヤンによる弾き歌いである。

     この曲を全然知らない人でも(ビトルズの曲はワイら年代では超有名だが現代の十代の坊ちゃん嬢ちゃん方は知らないかもしれない)聞いてすぐわかると思うが、メロデェイはシンプル、コォドも癖のない定石進行、キィボドの演奏技巧も簡単、塊の和音をバ~ンと押さえ、あとはかんたんな分散和音、テンポが遅いこともあって初心者でも難なく引ける。演奏技巧が超簡単ということは歌さえ上手に歌えれば弾き歌いは難しくないということである。

 母語でない日本人が歌うとしても、この歌詞自体は中学の英語の教科書・リィダァに載ってもおかしくないほどの簡単な英詩であるから、発音さえオリジナルをせぇだいて聴いてネェテェブの発音に合わせば十分聞くに堪える歌い方ができる。

 さてそれでは今日のブログのテマの歌詞についてである。この「レトイトビィ」の歌詞、歳ぃいってくると若い時に受け取っていた歌詞の意味とまた違ったとらえ方をするようになった。今も昔もこの曲の一番印象深い部分は「♪~レッビ~レッビ~レッ~ビィ~ィ~ィ~」(と日本人のワイには聞こえる)の繰り返しの部分であるのは変わらない。英語で書くと(let it be)である。まず英語原文と一般的に流布されている和訳を挙げておこう。

When I find myself in times of trouble

Mother Mary comes to me

Speaking words of wisdom

"Let it be"

And in my hour of darkness

She is standing right in front of me

Speaking words of wisdom

"Let it be"

僕が苦しんでいるとき

聖母マリアが僕の前に現れて

賢明な教えを授けてくれた

「あるがままに」と

僕が暗闇の中にいるとき

聖母マリアは僕の正面に立って

賢明な教えを授けてくれた

「あるがままに」と

 先ほども述べた様に原文でも中学英語の知識で十分理解できるものではあるが、一か所だけ難しいフレーズがある。それがこの歌詞の胆の部分でもあるlet it beである。中学英語の知識でここまでサラサラ訳して意味が把握できても、ここではて?と止まってしまう。でも日本人がこの歌に接したときはだいたい原文と同時に和訳も目にするはずだから、この訳にあるように「あるがままに」あるいは「なるがままに」がlet it beの意味であることがあらかじめ分かっていることが多い。だからその和訳に接して一応、何となくわかった気になる。しかしネイチブのように英語を使いこなす人は別として学校教育の英語の中でこのlet it beのニュゥアンスをつかむのは難しい。

 でもまぁ詩の和訳は英文学に造詣の深い人が訳したのだから、このようにlet it beを「あるがままに」乃至は「なるがままに」というのはその通りなのだろう、丸っとこのフレーズを覚えてしまえばなんかの時に使える、そして使いながらそのフレーズが身についていく。とまぁこのようにして英語学習は進んでいくのだろう。しかし70年生きてきたワイから言うと、このフレーズ全く使えなかった。この歌詞から判断して苦しい時やずごく落ち込んだとき、そうなった相手に「気ぃすることあれへんでよぉ~」と慰めに使ったり、また自分に対して「くよくよすることあれへんわ」そして「なるよ~にしかならへんわ」という言い聞かせに使える予感はしたが、はたしてどんなシュテュィェーションで使ったら良いものかと迷いいまだに使っていない。

 最近、あの世がうんと身近になってきたせいか(ブログを見てもらったらわかると思うが)、モノ参りに出かけ仏さん神さんのまえで祈願することが多くなった。ずいぶん信仰や宗教に身が入りだしたと思う。これからもせっせと後生を願わにゃとこころに決めている。そんな今日この頃、このビトルズの「レトイトビィ」の歌詞をあらためて読むと、これかなり宗教的な深い意味に解釈できるんじゃないんかしらん、いやもっというとこれ、キリスト教的な「お経」あるいは「真言」といってもいいんじゃないんか知らんとまで思えてきた。

 まず詩のいっちょ最初に「苦」がくる。When I find myself in times of trouble、これは一時的な苦しみとも解釈できる。青春真っ盛りの青年ならそうだろう、やがて苦しみは去るだろうと思うし実際見かけはそうなる。しかしお釈迦様は20代で「一切皆苦」、生きることと苦しみは不離であることをさとった。このI find myselfという言葉をみるとどうもお釈迦様の言うような「一切皆苦」という本源的な「苦」をfindしたんじゃないかと思えてくる。

 非力な迷える衆生はどうしたらいいのだろう。寺院教会、聖職者に救いを求めたくても、生活に追われ赤貧にあえぐ人々にはそれに接する機会もない。たまさか祈願しようにも、不信心を尽くした身であり、高尚なキリストやお釈迦様に救いを求めるのもはばかられる。そんな衆生に対し頼りになる身近な救い主がいらっしゃる。大乗仏教では菩薩である観音さんお地蔵さん、キリスト教では聖母マリア様である。人類を罪のため全滅寸前まで罰した旧約聖書の神の系譜を引くキリスト(神である父と一体である)はなんか恐ろしい、不信心ものは罰せられそうである。その点、やさしいお母さまのようなマリア様は誠に優しい。罰なんどを最初に持ってきたりはしない。母性で包み気軽に願いを聞き入れて救ってくれそうである。

 観音菩薩様やマリア様はどこにも表れ祈願を聞き救ってくれるという信仰が特に非力で宗教的な恩沢を受け難い貧しい庶民に広がったのはもっともなことである。そのように見ると第二フレーズ、Mother Mary comes to me、は苦しみに落ちいった人の前にフットワークも軽く表れた聖母マリアさまである(大乗仏教なら観音さんだろう)。あらわれた聖母様はwords of wisdomを授けてくれた、ここまで宗教的意味にこだわってくると当然、このwords of wisdomはワイとしては「智慧」(単なる知恵ではない苦しみの元の無明を消す智慧)であると訳したい、ホントは般若波羅蜜(仏の智慧)と言いたいがこの場合キリストのおっかさんなので智慧にしておく。

 そしてそのあと赤ちゃんによりそいあやすように 言った言葉が

"Let it be"

 この言葉はもしかして英米圏では有名な聖書のフレーズにあるんじゃないかと調べると、あった。この言葉やはりキリスト教のお経ともいうべき「新約聖書」ルカ伝第一章38節に出てくるのである。この章は天使のマリアに対する受胎告知の章である、そしてこの38節は処女懐胎して驚くマリアに、天使は神の子を宿したことを告げ、それにこたえるマリアの言葉である。全文をあげる。

Then Mary said, "Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word" And the angel departed from her 

聖母マリアの和訳(私の拙い訳です、Beholdの古語はさまざまに訳されますが私はこのように訳しました)

{私はまぎれもない主の婢(はしため)です、お言葉に従って私(の身)は成るがままに、}

 Let it beを「成るがままに」と訳したが、聖書の言葉として受け取ると、これはまた「神の御こころのままに」という意味と表裏一体であることが分かる。「神の御計らいにゆだねる」といってもいいだろう。そして聖母は処女のまま受胎し神の子を産むのである。聖書には様々な聖的な(奇跡)場面があるがこの部分は聖書の中の圧巻といっていいだろう。それだけにこのマリアの言葉、Let it be、はこの最も重要な聖的言葉であると考える。

 ワイも若いときゃぁ、ただ表面的な言葉の意味しか関心がなかったが歳ぃいってこのように聖書からきた言葉と知り、あらためてLet it beを聞くとその言葉の深い宗教的な意味に思いをはせるのである。キリスト教とお大師っさんの啓いた真言密教を比べるのもどうかと思うが、この天使の受胎告知それに対する、聖母の言葉・態度を見ていると、神(仏)と自身の一体感、梵我一如、密教的には「即身成仏」というのだろうが思い浮かぶ、お大師さんが室戸の岩屋で修行したとき、明星が自身の体に飛び込み、大ビルシャナ仏(大日如来)と自身が一体化した宗教体験をしたといわれるが、精霊が身に宿り、神の子を身ごもった場面のこの聖書ルカ伝第一章38節のマリアの体験はまさにお大師さんの梵我一如・即身成仏の体験と通じるものがあると私は思う。

 歌の詩はさらに以下へと続く

And in my hour of darkness

She is standing right in front of me

Speaking words of wisdom

「in my hour of darkness」は、暗闇の中にいる時、と訳されるが宗教的に解釈すれば「無明の闇」(すべての煩悩、苦の大本)である。そしてそれを照らし払う「智慧」の言葉が再びささやかれる、繰り返されるのは、Let it be、である。詩はこのあと二連、三連と続くが何度も何度もLet it beを繰り返す。こうなるとまるで「呪文」のようである。いや、実際私はあらためてそう解釈した。民間レベルでは、呪文とかマジナイとか言われるが仏教に取り入れられればそれは真言、陀羅尼、マントラといわれる。キリスト教にも「アーメン」だの「アベェ、マリィヤァ」とか言うのがある。Let it beはそれに類するものであるといっていいだろう。密教の真言もマリア様のささやくLet it beもワイには同じように無明の闇を照らす智慧を招来する言葉と思える。

 排他的な宗教であるキリスト教から言わせると密教の真言などそれこそ悪魔の言葉としか言いようがないが、しかし先鋭的な宣教師は別として、ケルト民族の伝統など色濃く残る欧州の辺境では古来よりキリスト教徒とされてはいても、呪術的なもの、(マントラのような)咒言や祈祷などがキリスト教の風土の中に残っているのである。他にもマリア信仰、聖者信仰、あるいは聖遺物崇拝などに大乗仏教的な要素をオイラは見るのであるがあながち間違ってはいないだろう。

 もうオイラははっきり、Let it beはマントラ・真言の一種であると認定しよう。身口意の三密でLet it beを唱えればこれは立派に真言になる。この点真言密教はありがたい。独自の真言を唱えても誰も文句は言わない。身口意の三密が重要なのであってマントラの種類は問わない。それが証拠に密教寺院の前では様々な祈祷の文句、なかには聞いたこともないような真言を平気で唱えている人もいる。もちろん正式な作法としたらおかしいのだろうが、すべてに遍在する大日如来様からすれば各種の仏も各種真言も形をかえて現れたもので本来は一如である。

 密教寺院のまえで「♪~レッビ~レッビ~レッ~ビィ~ィ~ィ~」と新種のマントラを唱えるのは身口意の三密に留意すれば可であると私は思う。これ逆に教会で真言のマントラを唱えれば、まずおちょくりに来たのかと非難され、しまいにはたたき出されるのが落ちであろうし、ムスリム寺院だと首を刎ねられることは覚悟しなければならない。仏教(密教)の包容力・寛容にはすごいものがあると思う。

 ワイが50年若ければ、上でみたように徳島駅前で「レトイトビィ」を弾き歌いするのだが残念ながら70の爺である。それはやめて、かわりに寺の前で数珠を繰りながら「レトイトビィ」と新種の真言を唱えるほうが似つかわしいだろう。


0 件のコメント: