2023年4月1日土曜日

春(貼る)爛漫

  知事選に続いて昨日県議選も公示された。巷は騒がしくなり、9日に向けて運動が盛り上がる、と言いたいところだが、徳島市域選挙区はそのような盛り上がりも期待されようが、なんと全県域の選挙区で8選挙区が無投票で18人が自動的に県議に選出される、まぁ定員以上に立候補する人がいないのだから仕方がないといえばそれまでだが、内心、「こんなことでいいのか?」との問いを発しているのは私だけではあるまい。

 民主的な地方自治はいろいろな制度でできあがっている。その大事な一つは「地方議会」とその議員の住民による選出にある。その意義は住民の意思を地方行政に反映させることにあるのは中学生でも知っている。そして議員は4年、あるいは解散などで選出し直されて新たな住民の意思が議会に反映されるのである。それなのに「無投票」と言うことは、民主的な地方自治の根幹をむしばむことになりはすまいか。

 しかし供託金はいるにしても立候補の自由は保障されており、その選挙区で定員以上の立候補が無いということは、これもその選挙区民の意思と思えばそれも受け入れざるを得ないのだろうか、だがこんなことが続き、無投票がさらに拡大すれば民主的な地方自治が危機に陥るとおもうが、これは私の杞憂であろうか。

 このようなことは政治家(政治屋)のみの責任に帰されるべきではない、住民の「まぁ、それでよし」とする風潮がそれを助長しているのである。和をもって貴し、となす我が国民性も長所ばかりではない。アングロサクソン張りの強引な地方自治も問題はあるが、それの半分ばかり見習って、住民が地方自治にもっとうるさく声を上げてもいいのではないか。そうゆう状況なら無投票などということは起こらないのではないか。

 このまま無投票議員が拡大すれば、議員がある一定の人々に永続的に固定してしまいかねない。もういっそ、裁判員制度の評議員や英米の陪審員のように全住民から無作為に(抽選で選ぶとか)議員を選んだらどうか、と非現実的なことだが、そこまで考えてしまう。

 幸いなるかな徳島市域に住む人は県議さまを審判する栄に浴することができる。多才な人々が出ていて目移りしそうか?いや誰も入れたい人がおらん!と嘆くか、しかしその権利も行使できない郡部の無投票の選挙区の人々から見れば羨ましいことである。


 さて上は市内某所の小公園の知事・県議立候補ポスター掲示板、知事候補と域内県議候補を入れて16人ものポスターが貼られている。多士済々、いろどられたポスターが背景の満開の桜とともにまさに

貼る(春)爛漫!

 しばらくの間その16人の掲示板ポスターの前で佇み、それぞれのポスターを見ながら考えた。もし人の能力、誠実さが顔にわかるように現れていたら、このように人を選ぶときにいいのになぁ、と、ところが外見や容貌でいわゆる「それらしく」みえても、鵜吞みにしてはいけない、そういうことはみんな言わずもがなわかっている。紳士面していても詐欺師だったり、美しい顔をしているのにえげつない行動をとる人もいる、見た目には決して騙されまいとみんな思ってはいる。

 しかし、まったくその人の情報がない中、つまり初対面に近い状態で、もし幾人かの人が面前に現れ、同時に同じような話をこちらに向かってした場合、その中の紳士らしく見える人、美しい容貌の人になんとなく心が傾きがちになるのもまた人情である。

 立会演説会などに参加し、ポスターだけでなく、その人の話し方、話の内容、身振り、などを見ればもっとどういう人かわかっては来るが、多くの有権者はそうゆうのに支持者は別として、参加したがらない。まして16人全員の演説会に参加し、その比較対象の中で判断するなどは不可能に近い、せいぜい、心に決めた人の(一人か数人)演説会に参加して、確認するのが精いっぱいではなかろうか。

 結局何が言いたいかというと、ポスターの顔、ポーズ、もちろん候補者の名も含めての全体のレイアウトが、選挙では結構有効であるということである。情報が乏しい中(これは有権者がそれを求めないということも大きい)、ポスターの「見た目」というのは大事である。

 そうおもいつつ知事・県議候補16人のポスターを見た。女性は2人、男性が14人である。女性についてのポスターの見た目は全く分からないので置くとする。さて男性候補14人である。見比べて

 「あっ!一人だけ、違うぞ」

 とまず思った。男性のその一人を除いて全員、背広にネクタイ姿である。どの人もみんな誠実そうにポーズを決めている、中には正面でなく斜めのポーズの人もいる。しかし一人だけは、背広・ネクタイではなく、いわばずいぶん「ラフ」な格好をしている。まぁ、庶民にアッピルするならそれもありだろう、現に他の県の地方選挙ではそういう格好のポスターもよく見る。

 しかし私の印象はその上になお、ある政治家のイメージが重なってしまった。それは決して悪いイメージではない。それは「不屈の精神」「自由の闘志」「民主主義の擁護者」「世界で今一番ホットな政治家」、ここまでいえば大方の人は、あ、あの人かとわかるであろう。そう、ウクライナ大統領ゼレンスキー氏である。

 彼は白っぽい綿パン、黒っぽい丸首セーター、そして同じく黒っぽいジャンパーの格好で橋の上で立ってポーズを決めている。この候補者の顔だけをゼレンスキー氏に入れ替えれば、キーウの町中の橋上の大統領といってもだれも疑問には思うまい(橋の欄干の黄金色もウクライナっぽいが、しかしよく見ると擬宝珠・ギボシなので日本とバレるが

 これは他の候補者が全員、堅苦しい背広・ネクタイ姿であるのに対し、このようなあるイメージ(ゼレンスキー氏だが)を重ねつつラフな格好での町中のポーズのポスターは、今風で洗練されているように見受けられる。もしかするとこのような政治家のポスター作りの専門のコンサルタントがいて(たぶん東京に)その洗練された演出の結果できあがったものかもしれない。

 しかし洗練はまた「悪ずれ」「すれっからし」にも通じる。折れ曲がり、こんがらがった72年間の人生を歩んだ私から見ると、悪ずれ・すれっからしは言い過ぎとしても、(このゼレンスキー氏とイメージの重なり合いは)なにかあざといやり方じゃな、と思わないでもない。しかしおおむね、このポスター戦略はこの徳島では成功していると私は見ているがどうだろうか。

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