2012年12月9日日曜日

週刊誌の終末論

 男性週刊誌は政治、芸能、有名人のゴシップネタが多い。それは当然である。大新聞か書かない、というか書かれない内容をとりあげるところに週刊誌の存在意義はある。
 優等生のお説教を垂れ流し、あたり障りのない記事しか書かない大新聞より面白いのは、人々が新聞では知りたくても知られない裏ネタを報道してくれるからである。

 それ以外では、これは売り上げをのばすためであろうが、若くて美しいボインのおねぇちゃんのグラビア写真が口絵に閉じ込まれている。(立ち読みでは全部見られないように袋閉じしてある。)

 他にも大新聞では怖くて扱えないような特集記事も週刊誌には存在する。まあいわば真偽が定まらない学説、現象などである。疑似科学、終末論などがよく取り上げられる。

 その中で終末論は男性週刊誌は大昔からの得意分野?で繰り返し繰り返し、手をかえ品をかえて登場する。なぜこんなに昔から繰り返し登場するか、を考えると、

 まず、終末論は『いつまでに世界が滅びますよ』という大予言がある。日本においては平安末くらいからあるが、その時期が来ても一向に世界は終わらない。すると次の終末論が流行る。でも世界はつづく・・そうすると次々終末論は登場し、流行る、これはおそらく地球がホントに滅亡するまで繰り返すだろう。

 それに終末論はカルトのようなものに結びつかなければそう害はない。一種の悲観論として目くじら立てる必要もない。

 千年来、終末論は外れっぱなしなので、週刊誌も(今度も当たるまいと、内心思いつつ)安心して取り上げられる。世界の終末論はだから週刊誌の好むネタなのである。

 ところが今週発売の週刊Gを見て少し驚いた。全く違う終末論をとりあげているのである。新しい試みか。しかし、こちらの終末論は興味本位では読まれないシビアーで厳粛なものを伴っている。取り上げることで部数が伸びるどころか嫌なもは敬遠されるように部数が減少するかもしれない。

 それは『世界の終末』ならぬ、『あなた自身の終末論』である。
 あなた自身の終末論とは、『死ぬこと』である。
 男性週刊誌らしく小難しいことは避け、具体的な事例で話を進めている。

 まず、死に至る過程でははひどい痛みを伴うものが多いということを事例をあげて説明している。短時間で死に至るがその短い間の想像を絶する痛み、また長く苦痛が続く死に至る病。
 緩和ケアでも対処できぬ苦痛もあるぞと、脅しの効いた記事が続く。読みながら

 「ぞぞぞぞぞ~」

 と怖気をふるう。

 次に死ぬ瞬間の話しに移る。まばゆい光・・だの、広い広い草原だの、川だのが臨死体験した人から語られる、しかし、死ぬ瞬間の体験って本当は死を経験した人でなければ語れない、しかしこれは逆説であって、あり得ぬから、この話全体、信用できない。
 だが、臨死状態になれば脳内麻薬が分泌されこのような幻覚を見るという科学的な説明記事には納得出来るものがある。

 そして記事は「死を受け入れる覚悟」につづく。
 若くして死に病に憑りつかれたものは、死を受け入れ得ぬ者が出てくる(そらそうじゃろ、まだ死ぬ寿命でもないのにと思うわなぁ) 事例として死と向き合うあまりの重圧に精神錯乱で精神科に入り、そこで亡くなった高校男子のケース。また壮年男子で無駄と客観的にわかりながら、あらゆる延命に1500万使い、延命もできぬまま最後は体からチューブがスパゲティーのように出て亡くなったケース。

 そしてある人にこんなことを語らせる。

 『死につつあるとは<私>というものがばらけて、霧消していく過程なんですよ。喜怒哀楽、夢、希望、すべてばらけて消えて無になりつつあるのが死なんじゃないですか』

 またしても「ぞぞぞぞぞ~」

 私をこれだけおびえさせる記事を書いてはいるが、男性週刊誌らしく、まとめの部分は曖昧でおざなり感が漂う。まとめの部分は二つ書かれている。でもこれがさんざん脅かされ、誰でもやって来る死に対する恐怖への癒しになるかどうかは疑問である。

 インドのガンジス川のほとりには死者の家があるそうである。そこでは死を待つばかりの哀れな人々がいるそうだが、彼らに死そのものに対する恐怖はない。彼らは輪廻転生を信じているからである。

 死に至る人は食欲はなくなる。放っておけば遅くとも2週間くらいで枯れ木が倒れるように死んでゆく。延命の欲をだし、栄養補給だの薬だの投与するからよけいに苦しい死を迎えるのではないか。我欲が死を苦しいものにしている。
 そして生きてきた以上は老、病を受け入れ死を見つめることが大切である。と結ぶ。

 誰でもやがては迎えるわが身の終末であるが、男性週刊誌にはあまりそぐわないテーマである。みんなわかってゃいるけど、知りたくない、忘れ、いや抑圧している。それをあえて選んだ週刊紙があったのでブログでとりあげてみました。

 (下は中世の木版画より、死の舞踏、やがて捕えられる死にあなたは・・・・・・)
 この絵に説明はないが、私の見るところ、
 死神に腕をとられ、「え~!もうお迎えか、もう少し待ってくれよ!まだやり残したことがあるんだよう」と生きる方向に指を指す。
 しかし、死神は離すものかと、強い力で引きずる。
 この男、とても、死に対する覚悟があるとは思われない。
 
 「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日きょうとは 思わざりしを。」


4 件のコメント:

しん姫 さんのコメント...

 やまさんにとって死は大きな壁になっているみたいですね。そんなに大きな壁だと乗り越えるのが大変でしょう。私にとって死とは単に「移行」です。というよりも「本来の自分に戻る」と言った方がいいかもしれません。あらゆるものからの断絶ではなくて、むしろ大きな拘束を受けているこの現実から断絶して、本来の無拘束の自分に帰るといったところでしょうか。ですからただの移行というよりも刑務所から開放されたかの如く清々しいことだと思います。そういう意味では死は祝福に値すると言ってもいいでしょう。そして現在、物理的現実に生きている私たちこそ死んでいるに等しい状態ですね。本末転倒という言葉がぴったり当てはまる事象ですね。(^.^)

yamasan さんのコメント...

 俗な週刊誌にこのようなテーマを取り上げるのは、教育的でいいですね。でも週刊誌ですから哲学的でもないし、もちろん宗教色も出せませんから深いものではないです。

 三島の小説の主人公はインドのベナレスでの体験で死生観がコペルニクス的転換をとげました。しんさまもそのようなきっかけがないかあったのでしょうか。

 しんさまの死に対する考え方はコメで何度か聞いて知っていますが、今の私にはちょっと理解できません。死が新たな地平でありその向こうに素晴らしい世界が広がっているということでしょうか。

 現在、死についてこれ以上深く考えたくないです。精神衛生上よくない気がします。でも、また機会はあると思います。

 57歳の働き盛りで亡くなった勘三郎なんかはどんな思いで死んでいったのか、と思ったりします。
 そんなニュースが週刊誌に死についての特集を組ませたのかもしれませんね。

てるゆき さんのコメント...

人間みんな死にます。これだけは平等です。生きているときに少しでも悔いのないように生きたいものです。

yamasan さんのコメント...

なんか棚ボタの幸運が舞いこまないですかね。死は平等でもそれに至る過程は不平等。僥倖に期待したくもなります。