2024年2月20日火曜日

フリーバス定期でバスに乗って(感想)

 


 一年有効のフリーパス・バス定期を購入し利用し始めて20日たった。はじめのうちはフリーということで、(物珍しさ、小旅行の雰囲気を味わうなどの理由)いろいろな路線に乗ってみたが、長くバスに揺られるのは、老人にはかなり疲れるのを体感し、今では乗るのは必要な路線だけになった。

 そして20日間乗った感想はというと。「衰亡」「ものさみしさ」「遠からず廃線の予感」である。結局一言で言うと乗客が極めて少ないことに対する私の感想である。路線バスは鳴門路線は除き、鍛冶屋原線、鴨島西麻植線、橘線、丹生谷線など、徳島市街に向かってくる路線はいずれも県西、県北、県南の郡部・田舎からやってくる。徳島市街地こそそこそこ乗り降りの乗客があるため、時間帯によっては客も多い(それでも混み合う時でもせいぜい最高八割程度)。しかし郊外へでて郡部・田舎を走るとグッと乗客は少なくなる。夜遅くなると一人、あるいは無人ということもある。バスを利用しない人でも、マイカーを走らせていて郡部の終点辺りではカラの路線バスが走っていることを目撃することもよくあることだと思う。

 私は温泉好きで夜遅くバス乗るが、夜のバスは郊外へ出ると私一人、多くて数人、それがマイクロバスならいざ知らず、大型の路線バスの中なのである。夜最終便の、薄暗く私以外誰も乗っていないバスに揺られていると、もう涙が出るほど侘しさがつのってくる。わが徳島のJRの列車ローカル線は乗客の利用が少なく赤字と言っていたが、バスの乗客の少なさはそれどころではない。路線バスの衰亡、遠からず廃線の予感、と書いたが、こんな状態では今すぐにでも廃線になってもおかしくない。


 いったいいつまで路線バスはもつのだろうか、とりあえず私は一年定期を購入したからその期間が終わるまではもってほしいと思う。自分が実際路線バスに乗ってみて、想像していた以上の衰亡を見るにつけ、逆に、いまだに路線バスが永らえているのはなぜだろうと疑問を抱いた。その疑問に答えるように18日付の地元ローカル紙に「先細る路線バス」という記事が載った。それによるとなんとか持っているのは、「県、地方自治体からの補助金」そしてあとは高速バスや貸し切りバスの収益で補填しているからである。

 市場原理に基づいて路線バスを切り捨てろ、という声が上がってきそうだ。いまマイカーは人々にとって靴のようなものであり、車はあって当たり前、移動はマイカーでできる、バスなどいらん!とは確かに多数意見ではあろうが、少数ながらも交通弱者は存在する。郊外を走る路線バスの乗客は、車も免許も持たない人の比率は高い。後期高齢者、障害者、車を買う余裕のない人である。人数はすくなくてもそれらの人にとってバスは移動するための頼みの綱である。経済的合理性のみで切っていいものだろうか。

 即廃止は、さすがそのような考慮が働いているのだろうが、利用者の少ない路線の廃止、バスの便の減少は近年顕著である。先の地元ローカル紙の記事によると、20年前と比べると路線の数は四割減、乗客数は約半数となっているのである。今後もこの減少は続くと考えられる。記事では県西部の三好郡の路線バスはなんと五年後には現在の八路線から一路線にする計画とある、もう廃便一歩手前である。これでは遠からず路線バスの緩慢な衰弱死が待っている。ワイのような交通弱者(腰や足は痛ぅて満足に動かんは、もうすぐ後期高齢を迎えるは、ビンボで車なんどとても買えんは、の三重苦の交通弱者じゃ)はどないすりゃええんぞぃ。教えてつかい!

 それに関しては、ローカル紙の記事は地元某大学で地域交通を研究している某教授のある提言を載せている。某教授いわく『路線バスが有効なのは都市部、大型バスを定期運航させるのは地方住民の需要に合わない』その上で『高齢者(交通弱者)に必要なのは週一回程度の通院と買い物に利用できる効率的できめ細かいサーヴィスだ、通学用には乗り合いタキシーが利用しやすい』とのこと。まとめとして、地域に応じた移動手段の最適化が重要だといっている。

 やっぱり最適化がでた、これは一面経済的合理性である。大型バスよりタキシのような乗用車の方が費用が安ぅてすむ。アッチャコッチャでジジババを拾ぅていって車に詰めこみゃぁええ。そりゃ確かにそうかもしれん。しかしきめ細かいとは言いながら、この提言を意地悪く読めば、年寄りは、乗り合いタキシを利用して週一回程度に通院と買いモンができゃぁいい。運賃は県自治体が補助してもええ、じゃぁ路線バスは廃しちゅうことでやりまひょ、文句はおまへんな、つぅことか。なんだか寂しいなぁ。(バスを利用して毎日は無理でも二日に一回はどこかへと思うのは贅沢なのぞみか?

 この提言のこの方法が正しいのかもしれん、路線バスの衰亡に対するワイの気持ちは、所詮は情緒的な、そう情緒だ、小ンまいとき、ばぁちゃんにつれられて、県西のばぁちゃんの里に行くのに、よくのった路線バスの、あの情感あふれる思い出に基づく情緒的な反発なのだろう。ワイとしては寂しさを胸に抱き、衰亡を見守る以外ない。まぁ、路線バスの完全衰亡より先にワイの人生の終了があるからええか。

 カラのバスあるいはワイ一人が乗っているだけのバスを走らせている運転手さんの気持ちはどんなのだろうとバスに乗り始めてよく考えるようになった。タキシと違い歩合制ではないので月給は変わらないだろうが、衰亡しつつあるバスを運転していて、将来の不安が起こらないことはないだろう。トラックなどの運転手からバスの運転手になった人は多いと聞くが、バスの運転手になってのこの乗客の少なさを見て、さらなる転職を考えている人もいるだろう。最近、タキシそしてバスの運転手のなり手がないので困っているというニュゥスをたびたび聞くようになった。ある県ではバス運転手不足のため路線の減便もあるという。人手(運転手)不足という面からもバスの衰亡は進んでいる。

0 件のコメント: