2022年5月18日水曜日

オロシャ その2 日本とオロシャの接触(閲覧注意!18禁)

  オロシャとはロシアのことであると歴史的な国名の由来を知らない人でも推測はつくだろう。使われたのは江戸時代である。明治人になるとアルファベット(英語の)に基づいて国名は「ロシア」表記が一般的になる。江戸期の人は表記などを慮ることなく耳で聞いたままの国名を日本語で表した。だからむしろ江戸期の国名の方が実際の原語の発音に近い。例えばメリケンはアメリカの国名であるが「アメリカ」と言うよりむしろこっちが原語発音に近い。それと同じでオロシャも耳で聞いて日本語表記にしたものである。よく言われるが「R」の発音、聞き取りとも日本人には難しい。巻き舌音であるため、日本人が聞くと巻き舌でRを発する音の前に「ゥかォ」の母音が日本人の耳には聞こえる。そのためオロシャになったものと思われる。(ここでちょっとしたエピソドを!皆さん、LとRの発音をうまくできますか? 西洋人が聞いてわかるように。LとRの違いがわかる発音って日本人にはすごく難しいんですよね。ワイも極めて苦手です。そこでワイの独自の方法、Lは普通にルの頭音で発音します。そしてRは舌を口蓋の中にうんと丸め舌先がつかないようにして、少しうなるような感じでルを発音します。そうしてル音の前にゥ~ォが音頭に聞こえるようにするのです。これでもネイティブのR音とは違いますが、それでもLとRの発音は聞き分けてくれます、なるほどR音のまえにオが聞こえオロシャになるのも納得です

 私とロシア人との遭遇は約35年前の北海道であったが、江戸期の人のオロシャ人との遭遇は北海道の東北にある南千島、そして北にある樺太であった。松前藩の役人、あるいは幕府関係者の派遣(探検)の役人、御用商人たちである。一方ロシア人はシベリアに進出しさらにはアラスカまで足を伸ばした。ヨーロッパで珍重される黒テンやラッコの毛皮を求めてと言われているが、原住民に毛皮税を課し、進出したシベリヤ、アラスカにたいし一方的に領有宣言を行い領土に組み込んでいった。16世紀以降ロシアを含めたヨーロッパ人のこの「領土・領有」の感覚、500年も昔の歴史のことではあるが全くもって理不尽で理解できない。現今の日本の民法にも「無主物を発見したら所有権を獲得できる」という条理は確かにあるが、ヨーロッパ人が発見した土地はどこもネイティブ(原住民)が何千年にもわたって暮らしているところである。それを無主物のように発見し探検したら原住民ともども土地を領有宣言ってまことに傲慢に過ぎる。もっともシベリア、アラスカに住む弱小民族にロシアが小銃・大砲で武装し、かつ主権・領土・国民の概念を明確化させ押し寄せてくる力にあらがう術はなかった。

 ロシアはシベリア、アラスカを領有すると南に転じてきた。南には主権・領土・国民の概念が確立した近代国家ではないが、それでもロシア以上に強力な帝国「清」があった。そしてカムチャッカ半島の南方には「日本」もあった。さすが清帝国には力で推し進めることはできず、清とは国境の約定条約を結びさらには一定の貿易の権利も得る。そして日本である。かなり強力な政府もあるからシベリアのように簡単に併合はできない、それで最大限南下し国境をできるだけ南に伸ばし、またできれば不足する東シベリア、カムチャッカなどの衣食の料を日本との通商で得ることを望んだ。それが18世紀中期以降の日本の北方の状況である。

 先にも行ったようにこの状況で接触するのは松前藩が最前線である。もどかしい話だがその領地にしても北に向かっては不分明な部分もあり、樺太(北蝦夷といわれていた)や択捉、国後島、そしてウルップ島以北の北千島も松前藩に(日本)に属するのか、いやそもそもそれらの土地の領有を主張する強い意志があるのか、はなはだ頼りないのである。幕府は長崎港での中国オランダ以外とは通商を、そして対馬を通して朝鮮国以外との通交は禁じており、北のフロント部分でのオロシャの接触は小藩である松前藩にとってはおっかなびっくりの態度であった。

 こんな時代、18世紀の末つ方であるが、ロシアの最深部にド~~~ンと入り、ロシア人と交流し、詳細にロシア人社会を観察し、最後にはなんとロシア帝国のラスボス、エカテリーナ2世女帝にまで会った日本人がいた。鎖国下ながら膨大なロシアの知見をもって日本に帰って来るのである。その名を「大黒屋光太夫」伊勢の船頭で江戸へ向かう回船が難破しロシア領だったアリューシャン諸島まで流されそこからロシアに深く入るのである。そして十年も滞在する。

 今その漂流記を読んでいる「北槎聞略」がそれである。左の本で岩波文庫版は当時の原文で書かれているが江戸後期の日本語なので読むのは難しくない。大変面白い本である。当時のロシアの文化、風俗のかなり細かい部分もよく叙述されている。光太夫がこの本の中で叙述するのはロシアの上層の貴族階級である(下層階級、農民、狩猟民などの記述はほとんどない)。ロシアは18世紀末になるとかなり西洋化が進み、特に貴族階級などの生活風俗はフランスなどと変わらない。産業革命前であるとは言いながら、このような西洋的なロシアに光太夫は臆するというか劣等感を持ったのじゃないかと思うが、全くそんなことはなく、西洋の科学技術もかなり理解しており、建築、土木、機械類など図示できるほど詳細に観察している。一介の商人兼船頭の光太夫がそれらの人と堂々と交流し(滞在数年後にはかなりロシア語も喋れるようになる)、それらのひとを観察し、堂々主張し、自分の意見も持っているのである。当時の日本の庶民階級のポテンシャル(能力の潜在力)の高さにおどろく。

 今後機会があればおいおいこの光太夫の漂流記についてブログでも言及しようと思うが、今日はその中から比較文化人類学的に面白いあるエピソードを一つだけ紹介しよう。光太夫のロシア社会の記述は極めて多岐にわたるが、まずワイの興味のあるのロシア人のシモの話をしようとおもう。光太夫の見聞記のすごいところはそれも詳しく記述していることである。過去に回船で度々江戸へ荷を運び、江戸の遊郭でもおそらく遊んだだろうと思われる。江戸文化は遊女文化を決して下位のものとしては見ない、むしろ江戸文化の中心をなすものである。とうぜんロシアのそれも恥じたり隠すべきものとしては見ない、表面は道学者ぶるヨーロッパ人とは大違いで色事、売春に当時の日本人として何の偏見もない。それだけに当時のロシア社会(上流階級だが)のシモの話を率直に信用できるものとして聞くことができる。

 見聞記(漂流記)では売春宿を『娼家』と表記し、訓読で「じょろうや」と読んでいる。その女郎屋に行くきっかけはロシアの友人の誘いであった。ロシアの遊女屋に行ったことがないというので光太夫は連れて行かれ、その女郎屋の遊女の様子や豪華な居間、調度、家具などを詳細に記述している。面白いのは後日また出かけ結局エリザヴェータという花魁となじみになり、ロシアを離れるまで濃密な情を交わしたことが書かれている。吉原の遊女との後朝の別れと変わらぬ風情である。この女郎屋は政府公許の売春であり、都に3カ所あると述べられている。公許売春に対し隠し売女は厳禁で罰せられるがそれにもかかわらずアチラコチラにあるのは江戸と同じである。

 シモの話でもここまではロシアの遊女屋も日本の遊女屋・吉原も変わらないが、光太夫の背負っている江戸の性文化がロシアよりももっと幅広く自由で闊達であったことについて感心させられるのは、次の項目である。

漂流記には『男色』としてあるロシア人があげられている。その人はヤクーツクの郡長(役人)であるが近隣の少年に懸想したけれども少年は承知せず、しかし金銀を与え様々に機嫌と取り結びついに「本意をとげにけり」とあるから、アナルセクスまで行ったのだろう。ちなみにキリスト教国ロシアでは男色は厳しき制禁とあるから罰せられるのである。しかし密かな二人だけの密会ならばよかったのだろうが、この少年、祭りの時に仏(キリストのこと)の前で聴聞僧に(慣例となっている)さまざまな罪を懺悔するとき、思いあまったのか聴聞僧にその次第を懺悔してしまった。少々の罪懺悔ならば聞き捨てにするところだが、男色の罪は大罪であるため聴聞僧より官(こうぎ)に訴えた。

 で、罰として郡長(役人で貴族)は解雇され庶民の身分に落とされ、なんと少年は獄に下して鞭打たれたのである。今だと郡長は少年強姦の罪で長期の懲役、少年は被害者として扱われまちがっても罰せられることなどないが、この少年はおそらく下層階級、農民の息子だったのだろう(だから郡長が無理矢理自分のものにしたのだろう)。当時、やる方も受け身も年齢にかかわりなく両方罰せられたのである、しかし身分による刑の多寡があった。それで貴族の郡長は身分剥奪解雇のみ、対する少年は下獄、むち打ちとなるのである。

 光太夫はこれについての感想は書いていないが、男色も陰間買いも江戸では当たり前のこととして受容されていることなので、わざわざ「・・・この国ではきびしき制禁なり・・」とかいている。性の自由度、性文化の厚みは当時のロシアいやヨーロッパ以上に日本は先進的であったことを思わせる。

 大体江戸では地方へのお土産として浮世絵が多量に販売されており、その中の「春画」は当然大人気、その中で男同士のセックスの浮世絵も何らの差別なく男色嗜好ジャンルとして同じように多く刷られ販売され買われていった。

 下は多量に刷られ人気のあった陰間(男性だが女装して性の相手をする)との春画


 下は丁稚と若主人か手代のからみの春画、ロシアの郡長も当時の日本だと問題にならなかったのになぁ


 男色作品は浮世絵の春画だけではなく、江戸の工芸の一ジャンル「根付け」にもこのようなものが作られている。ガチの男同士のシックスナイン、いやぁ~江戸の先進的な性文化ってすごい。


 明治になっても春画は作られた。日露戦争期にはこんなものも。日本兵とロシア兵


 大英博物館に収蔵の同じものには、落書きが書き加えられている。ロシア兵「ワタシ、モウシニソウデス」 日本兵「スグ、トドメヲサシテヤロウ」、なんかぁ~意味深な言葉ですね。このあとエクスタスィに達し、きっと仲良くなったんでしょうね。


 なんと濃密な日本オロシャの接触であることよ! 

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