2022年5月16日月曜日

オロシャ その1 イワン君たち

  二月上旬に文化の森博物館で「鳥居龍蔵と草原の遊牧王朝・遼」を見てからユーラシア史に俄然興味が出てきた。それから三か月きわめて幅広いユーラシア史の本を漁っておべんきょうしている。ただ興味も動機もそんなには失せてはいないが「寄る年波」(使い古された慣用句だ!)のせいか進行度は遅々としている。十年若ければ、いやせめて60代であればもっと身を入れて勉強できるのにと思っている。

 ゆっくりではあるが3か月もたてばそれなりに関連の本も読めたしユーラシア史の概略もだいたい頭に入ってきた。そのお勉強から今までならった歴史とは違う「視点」を提供してくれた。そもそも『ユーラシア史』』なんどという括りの歴史本は私の若いころは(あったかもしれないが)きわめてマイナーなものであったのか見たことがなかった。たとえばこの勉強の動機にもなった遊牧王朝・遼の歴史については昔は中国史あるいは東洋史の一環として位置づけられ、その範疇の中の歴史であった。遼王朝も中国の中原に侵入した北方異民族(遊牧民族)としての扱いで歴代の中国中原王朝の付録的扱いである。

 そして東洋史・中国史と対する大きな歴史の括りは西洋史である。昔の高校の歴史教科書はその大きな二つの歴史に四大古代文明、それにちょびっとびゃぁの中東史をを加えて構成されていた。だから高校以来歴史を勉強するときの視点としては「西洋史の視点」と「中国史の視点」で見ることの制約から免れなかった。このような見方からすると歴史の大歯車を動かしたフン族(ゲルマン民族大移動の原因を作りローマ帝国を滅ぼした)は西洋史からみると外部から唐突にやってきた遊牧民族であり、また同じく中国史のさまざまな転換点で大きな役割を果たす北方騎馬遊牧民族の匈奴、五胡、契丹、モンゴル、女真なども中国・中原に外部から侵入を繰り返す異質な存在であった。しかしユーラシア史という範疇で歴史を記述すると、それらの遊牧騎馬民族は外部からのエイリアン的な侵入者ではなく、主体的に動く歴史の主人公となる。13世紀に極西の西洋を除くほぼユーラシア全域を支配するモンゴル帝国がいかなるものであったかを知るには西洋でも東洋でもまた中東でもないユーラシア大陸のコアな部分(おおむね北緯40°以北、砂漠、草原、森林地帯を擁する)の古代からモンゴル勃興までの各遊牧民族の歴史を知らなければならない。それがまさにユーラシア史である。

 そしてユーラシア史はモンゴル帝国の没落をもって終わりとはならない、これは西洋史、東洋史が現代まで連綿と記述されているのと同じである。このユーラシア史の現代において多くの叙述がなされているのは、もういわずともわかると思うが、そのユーラシア大陸の大部分を占める現代のロシア共和国とその派生国たち(ソ連崩壊により誕生した国々)である。

 とまぁ、そのような理解の上でユーラシア史をぼちぼち勉強し出した二月下旬、世界を驚かせるような出来事が起こった。ロシアによるウクライナ侵攻である。もうそろそろ三ヶ月になろうとしているが未だに国際ニュースのトップとなっていて世界の関心を集めている。

 ここで私としては俄然ロシアの歴史が気になり出した。ロシアの歴史は東欧の国々として大きな西洋史の中に入るが、これ、ユーラシア史として考えるとまた西洋史とは違った見方ができるんじゃないかと思った。ロシアは近代以降西洋の文物制度を取り入れ西洋化してきた。しかし、どうもロシアは西洋的な国家とはちょっと違うと思っている。日本より早く西洋化したのに、専制的で中央集権的、国家が強権的に国民に対している。そればかりか外部に対しては尊大でしばしば攻撃的である。その例は30年前まで存在していたソビエト連邦である。しかしソ連が解体し民主化の期待が高まったが、その後の経過を見るとどうも我々が期待したような民主化分権化には向かわなかった。自由意志の選挙が始まったにもかかわらず結局は強権的独裁的なプーチン大統領を生まれた。これはある意味国民が望んだ結果じゃないだろうか。西洋の政治文化風土とは違ったロシアの千年にわたって培われてきた民族性というものもなにか根幹の部分で作用しているんじゃないかと思っている。

 そんなことも含めユーラシア史の視点からお勉強したロシア史について私なりのいろいろな感想をブログにしてみようと思う。

 まずはその主体であるロシア人の感想からのべよう、ロシア人はスラブ民族(その中でも東スラブといわれている)である。ヨーロッパというにはかなり東にすんでいるから、見た目はヨーロッパの人より幾分東洋っぽい顔形をしているのか、まず私の記憶にある実際見たロシア人を探ってみた。もう35年ほども前だろうか夏期数ヶ月北海道で放浪の旅をしていたとき根室と稚内でロシア人の船員をよく見た。話こそしなかったがその二カ所では何日も滞在したので町中でよくすれ違った。大体数人多いときは十人あまりのグループで行動していた。最初遭遇したときは白人と一目でわかったが、白人の旅行者にしては着ているものはヨレヨレで長靴のような履き物に違和感を覚えた。背の高さは高い人もいるが私より低い人も何人かいた。そしてすれ違ったときアルコールの匂いがした。その後すれ違ったときもほとんどアルコールの匂いを漂わせていた。いったいどんな人?とわからなかったので地元の人に聞くとロシアの船員で船は日本に蟹などの北洋の海産物を運んできて、帰りは日本の中古車を積んで帰るという。停泊中は船で寝泊まりするが町に買い物や食事、そしてなぜか銭湯に行くためロシア船が入港するとロシア人が町を闊歩するのである。あとでやはり銭湯のことについてなぜか詳しく聞くと、北海道の銭湯は大体サウナがついていて、彼らはそのサウナを利用するのだが、滞在時間やマナーの点で日本人客から嫌われているため銭湯の店主が困っているとのことである。その年全国ニュースでは北海道の銭湯がロシア人お断りとのロシア語の張り紙を報じており、それが差別になると問題になっていた。買い物のロシア人にもよく会った。小物から大物の電気製品をよく抱えて歩いていた。ロシアでは需要が高かったのだろう。そしてバナナの房をまるでサンタクロースが背負うようにたくさん運んでいた時もあった。ロシアは北国、熱帯のバナナが彼の地では価値があるんだろな、と思ったのを思い出した。

 当時、日本はバブル期、対してロシア(当時はソ連)はペレストロイカの改革を行っていたが西側に比べてかなり経済的に遅れていた。そして結局は破綻しソ連崩壊となる。そのためかロシア人(船員)はみんな生活に疲れたように見え、かなりみすぼらしく見えた。しかし国での困窮を少しでもよくしたいためか、釧路や稚内で買いあさるロシア船員は野性的なたくましさも持っていた。たとえていえば戦後すぐの駅前の闇市にたむろする担ぎ屋のような雰囲気があった。それ以後、ロシア人に近接した遭遇はない。しかしそのときの印象が強烈でロシア人のイメージを私の頭に強くすり込んだ。

 そもそも日本人がロシアに接触したのは江戸時代である、最初の印象は決して悪いものではなかった。しかし明治に起きた日露戦争でロシアを敵として戦い、かろうじて勝ったためか、以後一般庶民のロシアのイメージはよくないもに変わっていく。「ロスケ」などの侮蔑語も生まれる。さらに第二次世界大戦での敗戦間際、まるで火事場泥棒的に領土に侵入し奪い、また日本捕虜を無法にもシベリアの強制労働に連れ去ったためますます印象は悪くなっていった。とはいっても庶民的レベルで大がかりに付き合うこともなかったのでロシア人としての長所などは知りようがなかった。

 つい先日5月9日ロシアの対独戦勝記念日のパレードをリアルタイムの中継で見ていた。見たところ20歳になるかならずの若者が行進していた。そのスタイルの良さ、意気軒昂さ、そしてイケメンぶりに感心したが、それぞれの若ものを一人一人よく見てみると私はある共通したイメージを感じる、それはロシア人っぽさというのだろうか、皮膚の色も髪の毛もみんな明色だがなんとなくモンゴルっぽい遺伝子が混じっているんじゃないだろうかと感じたりする。なかにはモンゴルそのものというような顔の若者もいる。

 「これが、イワン(ロシアの普遍的な名前)君たちか」

 彼らはプーチンの命令一下、進んで戦地に行くことを納得しているのだろうか、と聞いてみたくなる。ロシア国内ではプーチンさんの今回の軍事侵攻に賛成が80パーセントを超えるという。イワン君もロシアの栄光、偉大さを知らしめるためプーチンさんの命令があれば戦地に行くんだろうな。71歳の爺からいわせればもったいない。若者を無駄に殺すなといいたい。どしてもいくんなら年寄り送れや、と言いたいがヨボヨボじゃあ戦闘にはならんか。そもそも戦争止めや!




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