2022年2月13日日曜日

契丹・遼のブログが進まない


 左のポスターにある文化の森博物館の特別展示を見に行ったのが5日だった。これをブログにしようと思っていたがかなり日にちがたってしまった。忘れたわけではない。この特別展の内部は一切撮影禁止なので、展示物写真を元にしてはブログはかけないので、おもにその展示内容の「契丹族」(歴史上存在した中国北方民族)と彼らが建てた「遼」王朝について、私なりに展示内容に触発されたことや、それに関する本などでオベンキョしたこと、そしてその感想を書こうと思っていた。

 ところがまぁ、これが70歳のジジイにはかなりハードなオベンキョになっている。まず遼王朝を建てた「契丹族」はポスターを見ると「遊牧王朝」となっている。この場合当然、「騎馬」遊牧民族である。では騎馬遊牧民族はいったいどのような民族か、まずは騎馬遊牧民族が活躍した地理上の位置を知らねばならない。ポスターにはもう一つのキーワード「草原」と入っている。遊牧し騎馬するんだから風土は「草原」が最もふさわしいのはわかる。しかしその草原は、なんと内蒙古あたりからずんずん西へ行き、黒海北方までだらだらとつながっているのである。幅は千㎞はあろうかという草原のベルト地帯が中国北方どころか中央アジアを通りロシアの西の果てまでつながっているのである。騎馬民族にとっては内蒙古から南ロシアまで草原のベルト地帯など一瀉千里、すべて馬に乗って行動できる範囲に含まれるのである。なるほど蒙古帝国が中国から中央アジアそして南ロシアまで一気に征服したのも草原の道を駆け進んでいったのならさもありなんと納得できる。

 だから遊牧騎馬民族をまず知ることから始めるとその地理の範囲はユーラシア北方のほとんどを占め、非常に広い、そしてそこに住む民族は騎馬遊牧するから地域を限定してなどはいられない、パカパカと走り回るので、ユーラシア草原全域を対象とせねばならない。そして各民族は支配、服属関係もあり、また時代を下ると、有力な支配民族が次々変わってくる、そしてそれに伴う民族大移動などユーラシア草原では頻繁に起こる。

 弱小とみられるような騎馬遊牧民族でも、みんな横のつながりを持っているし、また時代を変えてそれが強力に蘇ったりするから一つとしておろそかにはできない。それを時代ごとにたどってようやくと「契丹族」にたどり着く。その遡らねばならない時代は大体紀元前1000年くらい、そこを起点としてスキタイ族から始まり匈奴だの鮮卑だの突厥だの、まるで泡風呂のように民族がポコポコ出てくる、もう8世紀のウイグルあたりまで来るとヘトヘトになってしまう。契丹族登場までにはまだ200年近くある。

 もうブッ飛ばして契丹族だけすりゃぁええが。と思われようが、先も言ったように騎馬遊牧民族は南ロシアまで空間的なつながりを無視できない、そして時代ごとにいろんな民族が出てくるがみんな何らかの支配服属関係があり、契丹族だけなど抽出できない。そんなわけで今、中国北方民族史、中央アジア史、騎馬遊牧の文化人類的な観点で書かれた本を読んでいるのであるが、歳ぃよるとなかなかページが進まない、また時代ごとに出てくる民族名が覚えられない。繰り返し勉強し、ぼちぼち進めるようにしているが、ようやく5~7世紀ころの遊牧騎馬民族の歴史の大略を覚えたと思ったら、前に勉強した紀元頃の歴史の記憶があいまいになり、民族名を思い浮かべることはできてもそれがどの地理上の位置で、また支配服属関係はどうなっているのか、忘れてしまっている。

 契丹・遼のブログを書けるのはまだまだ先となりそうである。

 下はモンゴル高原の騎馬遊牧民族の末裔、彼らは子どもの時から乗馬に馴染み、まさに人馬一体、お父さんと子どもであろうか、日本人によく似た顔立ちだ。契丹族もモンゴル系民族といわれている。

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